プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生281」

小川は、久しぶりに日曜日に会社に出て仕事をしていた。昼まで仕事をしてから、秋子たちが待つ音大に行くつもりだった。
<明日、出張だから、準備をしておかないと。それから今度の土、日はいよいよクラリネットを吹かしてもらえるという
ことだから、今日は音大で居残り特訓をさせてもらおうかな...、おやっ>
静かな空間でデスクの電話が鳴り響いたので小川は一瞬驚いたが、すぐに手を伸ばして受話器を取った。
「おとうさん、今、話できる」
「ああ、秋子さん、どうしたんだい。この後、音大に行くと言っていたと思うけど」
「急用ができたから、電話したのよ」
「急用って、何かあったの」
「ええ、みんなのお昼ごはんを買って来ると言って、深美が自転車で近くのほか弁屋さんに行く時に...」
「深美に何かあったのか」
「出会い頭に自転車と衝突して、気を失ったの。アンサンブルのメンバーと一緒だったので、その人がすぐに救急車を
  呼んでくれて、私にも連絡してくれたの。今、病院にいるんだけど」
「で、深美の具合はどうなんだい」
「意識は病院に着くまでに戻ったんだけど、診てくださった先生が、念のため頭部CTを撮っときましょうと言われて、
 今、CT室に行ってるわ。小澤病院に今いるの。すぐに来られるかしら」
「もちろん、今すぐに」

小川が、救急受付に行くと待ち合いに秋子が座っていた。小川に気づくと、秋子は小川に駆け寄った。
「深美はどうだい。大丈夫かい」
「ええ、今、診察が終わったところ、CT画像に異常は見られなかったと診察医の先生が言われていた。でも、3日間は
 万一頭が痛くなったら、すぐに脳神経外科のある病院にかかってくださいと言われていた。でも、万一ですからと
 言われていたわ」
「ところで、深美は」
「意識が戻った後は、何事もなかったみたいよ。ただ...」
「どうしたの」
「ただ、意識を失ってからすぐに夢を見たんだって。人の良さそうな紳士が現れて、お嬢さん、ぼくと一緒に天国に
 行きませんかと言われたんだって」
「へえ」
「それで、深美は言ったそうよ。お生憎様、わたしはすることが一杯あるんですから。大学で文学を勉強したら、次は
 音楽をもっと勉強して、ウィーン・フィルと一緒にブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏するのよ。そうして
 落ち着いたら、寺東君と結婚するんだからって言ったら、その紳士は、これからも頑張ってくださいって言われたそうよ」
「寺東君って、誰だい」
「もちろん、小川さんが、手の早い奴と言っていた、深美の同級生よ。ああ、深美が戻って来たわ。どう、大丈夫」
「ええ、大丈夫よ。ところでこれからどうする。わたしは一応家に帰って安静にしてようと思うんだけど、おとうさんと
 おかあさんはどうするの」
「ぼくは、マイ楽器を持って来たから、ちょっと練習したいなあ」
「そうよね、来週から本格的に練習が始まることだしね。あら、先生、どうかしましたか。おとうさん、こちら
 診察していただいた先生よ 」
「こちらはあなたのご主人ですか。その鞄にはクラリネットが入っているようですが、クラリネットをされるんですか」
「ええ、でもぼくはキャリア5年です。クラリネットのことは、妻に訊いてください。秋子はキャリア30年以上です。
 それにアンサンブルのリーダーもしているんです」
「ほう、それは面白いな」