プチ小説「希望のささやき8」

鞄の中の携帯電話が鳴った時に、石井は歯の治療の真っ最中で、着信歴を見たのはそれから20分程してからだった。
「実家からか、父親の調子が悪いのかな」
石井の父親は腎臓に悪性腫瘍が見つかり、近く腹腔鏡手術を受けることになっていた。前回の診察を受けたその日の夜に
尿に混じって血の固まりが出たため大学病院に救急診察を依頼したが、少し様子を見て続くようなら、もう一度
電話を入れるようにと看護師から説明を受けていた。
「あれから3日になるか。両親は緊急の時にしかぼくに電話しないから、もしかすると...。とにかく電話してみよう」
電話に出たのは、父親だった。父親の声は前回電話を掛けた時よりも声に張りがあったので、石井は少なからず驚いた。
「あれっ、前より元気な声だね。ところで電話くれたのかな。なにかあったの」
「ああ、しばらく様子を見るようにと言われていたけど、やっぱり血尿に固まりが混じるから、一度診てもらおうと
 思って大学病院に電話を入れたら、診察しますから来てくださいと言われたんだ。それから、声に張りがあるのはな。
 手術に備えて減量に取り組んだからだと思うよ」
「そうか、頑張っているんだ。でも風邪を引かないようにしないと。先生が5キロ減量しないと、負担の少ない腹腔鏡手術は
  できないと言われているんだから、続けてほしいな」
「今、どこにいるんだい。大学病院には1時間以内に行くと言っている。ああ、今代わる」
代わって、母親が電話に出た。
「電話連絡が着かなかったんで、どうしようかと思っていたの。今、どこにいるの」
「Y歯科の前だけど」
「それじゃあ、近くでタクシーを拾って、家に来てくれない。お父さんを乗せて、そのまま大学病院に行ってほしいの」
「じゃあ、そうするよ」

石井を乗せたタクシーが実家に着くと、父親はいつもの外出のいでたちで母親と一緒に玄関前にいた。11月も半ばになり
気温も夜になって下がっていたため、らくだ色の長袖シャツ、ワークシャツ、襟付きセーターの上に背広を着込んでいた。
「それじゃあ、頼むわね」
「ああ、何かあったら、すぐに連絡する」

石井と父親が待合室で20分待つと、救急外来の当直看護師がやって来た。
「今から、診察をします。最初は、お父さんだけで診察を受けていただきます。息子さんは、ここでしばらくお待ちください」
石井は父親が診察室に行くのを見送ったが、3日前に父親と付き添って大学病院に来た時よりも、心なしかしっかりした
足取りに見えた。
石井は誰もいない待合室で連絡を待っていたが、どこからともなく男性の声が聞こえて来た。
「君が聞いたようにお父さんは手術が受けられるようにと努力している。その意志は汲んであげないといけないよ。
それともうひとつ大切なのは医師の気持だ。医療行為は医療者側と患者側の信頼関係の上に成り立つものだから、
医師の言うことを信頼することが大切なんだ」
石井は声が聞こえなくなると廊下に出て周りを見回したが、人影はなかった。

しばらくして当直医師が、石井に説明するので処置室に来てほしいと言った。石井が処置室に入ると父親はそこにある
ベッドに横になっていた。厚着と暖房その上にふとんを被っていたためか、父親の顔は、頬っぺただけでなく顔全体が
真っ赤だった。
やがて医師の説明が始まった。
「お父さんの場合、出血は病巣を取り除くまでは続きます。あまりにひどい時は入院して、輸血ということになりますが、
血の固まりが出ただけでは、入院にはなりません。血液検査でヘモグロビンの数値が著しく低かったり、鮮血が出ている
ということになると輸血が必要なので、入院となります。先程、採血したので、あと30分ほどで、検査結果が出ます。
その結果と尿の状態を見て、どうするか判断したいと思います。結果が出るまで、ここで、一緒にお待ちください」
診察医が処置室から出て行くと、父親が話し出した。
「最初の診察でK先生が診察する前にわしを診た、若い先生がさっき診察の時にいて、この前の診察のときよりしっかりとした
声が出ていると言っていた。ほんとかなと思ったよ」
石井は暑さのためトマトのような顔色をして、にこにこ笑っている父親を見て、たまらなく愛おしくなり、顔に手を
やりそうになったが、父親が話し出したので手を下ろした。
「晩ご飯まだなんだろ」
「そんなこと心配しなくていいよ。それにもうすぐしたら検査結果が出て、帰られるだろうから。おや」
石井と父親がいる処置室はガラスで囲われている部屋だったが、その横のカウンターに何台かノートパソコンが置かれていて、
何人かの医師がPCを覗き込んでいた。「ヘモグロビンが7か」という声が聞こえ、医師たちはいなくなった。石井は最初
父親のことかと思ったが、しばらくして診察医が処置室にやって来て、にこやかに話し掛けたので、父親のことでないことが
わかった。医師は説明した。
「ここに検査結果をプリントアウトしたものがあります。ヘモグロビンは前回の検査より少し低めですが、13.6で基準値の
範囲内です。このあと尿を見させてもらって、問題なければ帰っていただいていいですよ。じゃあ、お父さん、行きましょうか」

10分程して、診察医と父親が戻って来た。診察医は、血尿ですが心配ありません。貧血になったり、鮮血が尿に混じったら
いつでも電話してください。今一番しないといけないのは水分を取ることです。固まりで尿管などがつまると大変ですから。
念のため、2種類の止血剤を処方しておきましょう。病院内の薬局で薬をもらって帰ってくださいと言って、処置室を出て行った。
「背広を着せてあげるよ。先生が言われるように、貧血ではないようだよ。前は青白かった顔が、赤っぽくなっているよ」
「そうかい。お前にそういわれると元気が出て来たよ」
そう言って、石井は父親の手を引いたが、以前それをしたのはいつのことだったかと思い巡らしていた。

それから1ヶ月余りして、石井の父親は手術を受けた。腹腔鏡手術ではなく6時間半に及ぶ手術だったが、無事に終わり、
翌日には意識が回復した。翌日、石井が見舞いにいくと、父親はICU(集中治療室)にいた。酸素マスクをつけていたが、
父親はいつもより饒舌だった。
「入院したその日にMRI検査をして、腹腔鏡での手術はできないからと開腹手術に変更になった。それに手術室に入って手術台に
  横になったら、たくさんの男の先生がいて、どうなることかと思ったよ。すぐに麻酔がかかって、そのあとどうなかったか
  わからなかったけれど」
「それは、先生方がおとうさんのことを気にしてくれているからだよ。先生は傷が治ったら、早く家に帰れるように病棟の廊下を
  何周でもまわりなさいと言っていたから、仕事が終わったら見舞いに来るし一緒に病棟の廊下をまわろう」
「そうだな、先生の言うことは守らないとな。本当にこの病院のたくさんの先生に世話になったな」
父親は手術の疲れが出たのか、目を閉じた。石井が髪の毛をなでると焦点の定まらない薄目を開けて、本当によかったとつぶやいた。