プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生283」
事故に遭った次の日、秋子からの安静にしていたらとの忠告を受け入れ、深美は学校を休んだ。小川がたまたま休みだったので、小川の書斎でクラシック音楽を聴きながら、ディケンズ先生の著作について話をしようということになった。
「今日はおかあさんから、しっかり深美のめんどうを見るようにと言われているので、しっかりと役割を果たさせてもらうよ」
「ふふふ、心配しなくていいわよ。わたしは逃げ出したりはしないから。むしろお父さんがどんなクラシック音楽に興味を持っているかや、ディケンズ先生の人となりや作品について夕ご飯まで話してくれたら...」
「残念ながら、お昼からは会社の仕事をしないといけないから、申し訳ないけど、午前中だけになるなあ。それに深美も昼からは横にならないと休んだ意味がなくなるだろ」
「わかったわ、じゃあ、さっそく始めるわよ。まず、クラシック音楽だけど、お父さんはどんな曲が好き」
「深美が好きな、モーツァルトやベートーヴェンも好きだけれど、ロマン派、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ショパン、ブラームスなんかのピアノ曲や管弦楽曲が好きだな。特に今凝っているのは、ショパンかな。今からこれを聞こうと思うんだ」
「あっ、ショパンのバラードね。わたしもショパンのピアノ曲が大好き。でも独特のリズム感が必要なポロネーズやマズルカの演奏はとても難しいわ」
「超絶技巧は練習で克服できるかもしれないけど、民族固有のリズムというのを身に着けるのは難しいのかもしれないね。ちょうどベンさんが炭坑節を理解しにくいように」
「ふふ、お父さんらしい表現ね。わたし、大学に入ったら、オール・ショパン・プログラムで演奏会をしようと思うの」
「そうなのかい。でも、そのためにはしっかり勉強しないとだめだぞ。お母さんとお父さんが行ってた大学も結構...」
「ええ、分かっているわ。でも、法学部がいいのか文学部がいいのか迷っているの」
「それは深美がディケンズ先生の作品をどれだけ掘り下げたいかによると思うな。一般教養として彼の作品に触れるだけなら、文学部でなくてもよいと思うが、原文を読んで混じり気(翻訳はどうしても訳者の価値判断が入るからね)のない著者が発するメッセージを掴み取りたいなら、断然、文学部だと思うよ」
「わたしもそう思うわ。わかった。ところでお父さんは、正直言って、ディケンズ先生のどの作品が好きなの」
「正直に好き嫌いを言わせてもらうと、好きな作品は『大いなる遺産』『デイヴィッド・コパフィールド』『リトル・ドリット』プラス中編の『クリスマス・キャロル』ということになる。嫌いな作品というとディケンズ先生らしさがない『ハード・タイムズ』ということになるかな。でも『ハード・タイムズ』は学術的には興味深い作品と言われているので、興味があれば深美も読んでみるといい」
「じゃあ、次の質問よ。お父さんは、大学で何を学んだらいいと思っているの」
「じゃあ、逆に訊くけど、深美は何を学びたいんだい」
「イギリス文学かなあ」
「よく言われるように、大学は社会に出る前の猶予期間なんだ。その間に知識を身に着けるのも大切だが、共通の目的を持つ生涯の友を見つけるというのはもっと大事なことなんだ。私は入学してすぐにディケンズ先生と知り合い親交を深めるにつれて、もっと彼の作品を読みたいと思った。イギリス文学を中心にたくさんの翻訳書を読んだのも、ディケンズ先生をもっと理解したいという気持があったからだと思うよ」
「でも、ディケンズ先生は夢の中でしか会えないから...」
「うーん、でも家族を除いては一番影響力のある人というのは事実だよ」
「そうね、そのとおりだわ。わたしも最初、音楽をもっと理解できるようにと思って日本に戻ってきたわけだから、まっ先に協力してくれる人を探さないとね」
「そうだ、そのとおりだよ」