プチ小説「登山者9」

山川は携帯用音楽プレーヤーをOFFにすると、珍しく弱音を吐いた。
「今日は山道を歩き始めてすぐに頭痛がし出した。いつもはこんなことはない。音楽は心地よく響いて、足取り軽く山道を進んでいくのに。昨晩はよく眠ったしゴールデンウィークの気候のよい頃だというのに、半分も行かないでへばるなんて」
そうは言いながらも、山川は極めて体調が悪い時や悪天候の場合を除いては、一度決めた行程を変更することはなかった。
<今日も青ガレ―金糞峠―八雲ケ原湿原―武奈ヶ岳山頂―ワサビ峠―中峠―金糞峠―青ガレの行程をこなすつもりだが、最後までもつのだろうか。ここからが大変なんだ。この金糞峠に上がる坂道が、最初は砂地の道が続き途中からガレ場になる。しかもこの急傾斜。でも足を上げて前に踏み出していれば、いつかは着くさ。おっと、砂地に足を滑らせて転んでしまった。頭を打ったり、足や腕の骨を折ったりしたら、えらいことになる。でも今までこんなことで弱気になることはなかった。12年くらい前から、比良に来るようになったんだが、このコースを再び歩くことができるんだろうか>
山川はようやく金糞峠にたどり着いたが、いつもより長く留まりいつもの倍の量の水分を補給した。
<ここからしばらくはなだらかな道が続くし、八雲ケ原で昼食を取ったら元気になるだろう>
30分ほど小川に沿った平坦な道を歩き、昼食を食べて山川はいつもの元気を取り戻していた。
<頭痛はだいぶましになった。これは小鳥の囀りや心地よい風のおかげだろう。いつも思うことだが、山は身体の中の血液を浄化してくれる。ここから武奈ヶ岳山頂までは約1時間だが、のんびり行くさ。秋と違って、午後5時でもまだ明るい。おっ、鶯が鳴いているぞ。やっぱり鶯は格別な気がするなあ>
山頂近くは、晴天のせいか、青葉が映え山並みも遠くまで見渡せた。
<さあ、山頂の空気をたっぷり吸ったし休養も十分取ったから、帰途につくぞ。ここからしばらくは見晴らしがいいから、疲れも忘れる。武奈ヶ岳登山を何のためにするかと言うと、この景色を見るためと言えるだろう。遠くに琵琶湖を見ながら、比良の山並みを愛でる。そんな時間をあと何回くらい持てるのだろうか。.....。いつもの通りこの砂地の坂道を下ると、樹林に入っていく。最初の頃はすべって何度も転んだが、このわずかな砂地の道にも自分の歩きやすい道を作っていて、それに沿って行くとほとんど転ばなくなった。歳を取るのは仕方ないが、経験がそれをカヴァーできれば何とかしばらくはやっていけるのかもしれない。さっきは下り坂で下を向くと軽い立ちくらみがあったが、今は何ともない>
ワサビ峠を過ぎての下り坂は険しく中峠までは人と出会わなかったが、頭痛が霧散しさわやかな気分になった山川の心は軽かった。
<今、2時前だから、比良駅に4時30分くらいには着くだろう。この中峠から金糞峠まではまさに水と戯れながら進む道のりで、いつも沢べりで休憩したいと思うんだが...。それにいつかテントを担いで登り、満天の星を眺めたいものだ。武奈ヶ岳の山頂近くにテントを張れるのかな。いや、強風で吹き飛ばされるから、駄目だろう。多分、金糞峠近くの平坦なところか、前にキャンプ場があった八雲ケ原か、ワサビ峠を下って小川を渡ったところかになるだろう。最近は軽量のテントができているというから...。一度、スポーツ用品店で訊いてみよう。シュラフ(寝袋)のいいのを買っていて、宝の持ち腐れになっているから。よーし、絶対にテントを買うぞ>
山川が、青ガレを下りていく途中、60才くらいの女性が声を掛けた。
「ああ、あなた、足が軽いわね。ここを何度も歩いているのかしら」
「ええ、もう40回以上」
「そう、それで軽々と歩いているのね。私たちも頑張らなくっちゃ」
山川は笑顔で応えて、先を急いだ。
<最初の頃は行きも帰りも青ガレで休憩を取っていたが、今は通過点に過ぎない。あの頃に比べたら、体力がついたのだろうか。いやいや、この疲労感は2、3年前まではなかったものだ。やっぱり、常に鍛えたいないと衰えていくんだ。おや、若いカップルが何か話し掛けてきたぞ>
「あのー、ちょっと教えてほしいんですが。見たところ、あなたは何度もここに来られているようですが、このルート以外に面白いところはないですか」
「比良はたくさんのルートがありどれも楽しいのですが、やはり比良駅から金糞峠を経由して武奈ヶ岳に至るコースが一番すばらしいです」
「比良駅から登られたのですか。すごいですね。私たちは坊村から上がったんです」
しばらく同行して青ガレとイン谷口の中間点にある水飲み場を教えると、カップルは喜んで水を飲んだ。カップルが礼を言って山を下っていくと、山川もその水を飲んだ。
<それにしても山は礼を正して臨めば、多くの恩恵を与えてくれる。何度、その恩恵に救われたことか。これからどれだけ生きていけるかわからないが、これからも困った時や迷った時には、導いてくれたり示唆してくれるだろう。答えを提示してくれるというのではなく、触れて感じて、さわやかな気分になって戻っていく。それが大切なんだ>
山川が比良駅近くまで来ると、小型トラックの横に立っていた農夫と目が合った。
「今日はどちらへ」
「金糞峠から武奈ヶ岳に登り、帰りはワサビ峠を回って帰って来ました」
「ほう、じゃあ、長距離のコースに行ったんだ」
「ええ、最初は不安だったんです。でも、歩いているうちにそんな不安はなくなって、ただ楽しいことだけが飛び込んできて、あっという間にここに下りてきたという感じです。心地よい疲労感を残して」
「ははは、まあ、家に帰ったらゆっくり休みなさるといい。そしてまたいつかここに来なさるといい」
山川は農夫に一礼をし比良を見渡したが、まだ初夏の強い日差しが残っていた。