プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生284」

小川は、久しぶりに会社の帰りに風光書房に立ち寄った。客がいなかったので、小川はさっそくカウンターに行き、店主に声を掛けた。
「こんにちは。何かいい本ないですか」
「やあ、小川さん、珍しいですね。いつもなら、ご自身で店内を見ていくつかの本の購入を決められてから、私のところへ来られるのに」
「そうか、いつもそうしていたっけ」
「お急ぎなんですか」
「いやあ、したいことは一杯あるんですが、家に帰ってすぐにできるものでもないですから。ただ、ディケンズの本を読むために毎朝のように行っていた喫茶店に行けなくなってしまって」
「ほう、それはどうしてですか」
「勤務時間が30分前倒しになったので、20分余りしかそこにいることができなくなってしまったんです。ただ受動喫煙に行くだけなら、健康のためにやめておこうということで、その喫茶店に行かなくなってしまったんです。それで読書量がめっきり減ってしまいました。最初は、朝、4時に起きて、午前6時から始まるその店の開店と同時に入ればいいと思っていたんですが、しばしば残業で帰宅が遅くなるので、体力的にそれも難しいかと」
「なるほど、やっぱり腰を落ち着けて読むには50分くらいは必要でしょうね」
「そうなんです。それで今まで購入した本も余り読めていません。ただ店長さんのお顔を見ると元気が出るので、たまにはここに寄ってみたくなるのです」
「ははは、それはありがとうございます。じゃあ、気軽に読める本をひとつ紹介させていただきましょうか」
「ほう、これがその本ですか。昭和16年?戦前の本ですか『セバスティアン・バッハ回想記』アンナ・マグダレーナ・バッハ著ですか」
「ええ、でもこれはバッハの奥さんが書いたものではなく、後世に創作されたものです。それでもよくできていて、感動したりもしますから。小林秀雄はこの本を絶賛しています」
「じゃあ、それをいただきます。でもいつ読めるんだろう」
「確かに、読書は時間を作らないとできないものですからね。学生時代なら、夜更かしして寝坊するなんてことも可能だったのですが、社会人になり会社で重要な仕事を任されるようになると、本を読んでばかりいるわけにはいかないでしょう。ここは発想の転換をして、また時間が持てることを信じて、読みたい本を買っておかれればいいと思います」
「そうします。でも、勤務前に職場の近くの喫茶店で読むというのは、至福のひとときだったのに。それが失われようとしている...。ぼくのひとつの時代が終わったのかな」
「小川さんのお気持ちはよくわかります。でも一番お好きなディケンズの長編はすべて読まれたんですよね」
「いいえ、それでも「ニコラス・ニクルビー」以外は読み終えました。でもそれで終わりというものではないです。西洋文学で読みたいのがたくさんありますし、ディケンズの作品の新訳が出たら読んでみたいし...。そう考えると一生かかってもできないような気がしてきたなあ」
「まあ、焦らず、自分の決めたことをひとつずつきちんとやっていくのがいいでしょう。仕事にしても、家族のことにしても、趣味にしても。それがある程度の高さまで行ったら、客観的な評価がなされ、昇進したり、家族から感謝されたり、社会で重視される人物になったりする。それがあるから、人生頑張っていけるんじゃないかな。案外、客観的評価というものは公平で信頼できるもんですよ。ですから、小川さんもいつかは今のときを振り返って、あのとき頑張ったのは無駄じゃあなかったと思うようになりますよ」
「そ、そうですよね。ありがとう」