プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生17」

秋子が以前、小川がよく行く名曲喫茶ヴィオロンでコンサートをしてみたいと言っていたので、ヴィオロンを訪れた
際に小川はマスターに尋ねてみた。マスターの説明によると、特に制限はなく早い者勝ちでコンサートをすることが
でき、チャージ料も折半して店と演奏者双方の収入にできるとのことだった。
秋子が電話を掛けて来た時に小川がそのことを話すと、秋子は楽しそうに話した。
「そういうことなら、是非わたしもそこで演奏してみたいな」
「でも、クラリネットの独奏になると音域も余り広くないし、すごく地味な演奏になるような気がするけど...」
「そうね、ピアノやカルテットと一緒にブラームスやモーツァルトの曲を演奏するのはまだまだ先のことだけれど、
 前から親しくしている音楽仲間にBGMのテープを作ってもらってそれを流しながら演奏しようと思うの。
 伴奏なしでずっと演奏するのは変化に乏しいし、第一ずっと吹き続けるだけなら、30分も続かないわ。クラ
 リネットはクラシックだけでなく、ジャズやポップスの曲もできるし歌謡曲も吹けるから、レパートリーに
 できる曲はたくさんあると思うわ。それからクラリネットの音域だけれど1年間音楽教室で習えば、1オク
 ターブ下のミの音から2オクターブ上のドの音までは出せるからかなりの曲は吹けるのよ。それにリード楽器で
 音色に変化が付けられるから、聞きに来られた方を飽きさせない自信はあるわ。そうだ小川さんには司会をお願い
 したいと思うんだけれど...」
「もちろんオーケーだけれど、どんなことを話せばいいのかなぁ」
「その曲にまつわる楽しい話。そうだ、お客さんからのリクエストに応えて演奏するのも面白いかもしれないわね」

その夜のディケンズ先生は少し陽気だった。
「やっとわたしの出番だ。陽気に行きましょう。小川君、「荒涼館」も下巻に入ると面白くなっただろ」
「そうですね。エスタ・サマソンが病気したことをきっかけにして思いやりのある優しい性格に変わり物語の芯に
 なる人物がようやく出て来た気がします。その他、好ましい人物である、ジャーンディス氏やボイソーン氏に
 もっと活躍の場が出てくればますますのめり込んで行けると思います。それにしてもエスタが失明するのか
 はらはらさせておいて、下巻の最初の3章にエスタを登場させないのは少し焦れったい気がしました」
「そうか、でも焦れったく思うのは、楽しんで読んでくれている証拠だと思うんだが...。ところで、秋子さんが
 コンサートをするということだが、わたしのリクエストをきいてもらえないだろうか。「グリーンスリーヴス」、
 「ロンドンデリーの歌」そして「春の日の花と輝く」だ。最後の曲は、「荒涼館」のモチーフに通ずるものが
 あるように思うのだが。そうだここのところ、君に楽しんでもらえなかったので、今日は君にわたしのクラリ
 ネット演奏を楽しんでもらおうと思う。いいかな」
そう言うとディケンズ先生はベルの側から息を吹き込んだり、リードを付けないでマウスピースに息を吹き込ん
だり、右手と左手を逆にして演奏していたが、やがて「春の日の花と輝く」を無事演奏すると鳴り止まぬ拍手の中
お辞儀を何度もしながら消えて行った。