プチ小説「希望のささやき9」

石井と彼の父親は、大学病院の中の飲食ができる待合の長椅子に腰かけて昼食を取っていた。
「先生の話だと、腎臓の摘出手術は成功したけれど腎臓がんが肺に転移している。それは確かなようだけど、薬の投与で抑止できるかもしれない。それでもクレアチニン(腎臓の状態を評価する)の数値が落ち着かないと導入は難しいと言われていた。もう少しすれば血液検査の結果が出るけど...」
父親が美味しそうにおにぎりを頬張るのを見ながら、石井は父親に語り掛けたが、父親はにこにこしているだけだった。
<こうして見ていると顔色もいいしクレアチニンの数値は下がって安定しているようだ。これをいかにして続けていくかだが、リハビリ病院の管理栄養士さんに教えてもらった宅配業者に透析食の配送を昨日お願いしたから、食事の方は問題ないだろう。後はうちの環境だが...>
父親は石井の考えていることがわかっているようで、頷いてから石井に言った。
「お前のおかげで今は落ち着いている。心配するな、母さんとは仲良く助け合いながらやっていくから」
「そうだね。ぜひそうしてほしいな。もうすぐ午後1時30分になるから、腎臓外科外来の受付のところに行こうか」

石井と父親が受付で戻ってきたことを伝えるとすぐに看護師がふたりのところにやって来て、中待合に入るように言った。しばらくして主治医が父親の名前を読んだので、ふたりは診察室の中に入った。
「今日の血液検査で腎臓の数値は下がっています。リハビリ病院で緊急入院となった時の数値は4.1でしたが、今は2.8です。8から透析の導入を考えなければなりませんが、今は落ち着いていますね」
「ちょうどあの時、連日最低気温が28〜29度で多分室温は30度以上になっていたと思います。それなのに一晩中冷房を入れるのは体調を崩すと言って父親が自分で寝る前に冷房のスイッチを切ったものでしたから、それで体調を崩したんです。それに水を余り飲まなかったようですし」
「じゃあ、脱水状態になったんですね。腎臓を機能させるには水は大切ですよ。一日最低1リットル、できれば1.5リットルは飲んでもらわないと腎臓が回らなくなる」
「わかりました」
「さっきも言いましたが、腎臓の状態が落ち着いたら、投薬治療を始めるか決めてください。高齢であるので、副作用があるから治療を行わないというのも選択肢のひとつです」
「もう少し状況が落ち着いてから、家族で相談して決めます。次回は検査を受けて先生のお話を聞くだけで、次の次の診察の時に投薬治療を受けるか決めたいのですが」
「それはかまいませんが、投薬は早い方がいいですよ」

診察後、石井と父親は、大学病院の玄関前に着けられたタクシーで自宅へと向かった。
「どう調子は」
「今日の診察で先生の説明を聞いて、ほっとした」
「でもいつ状態が悪くなるかもしれないから、予防のために早く投薬治療をした方がいいよ」
「まあ、それはじっくりと考えさせてくれ。薬を飲んだら、すんなり良くなるとは限らないようだから。そうだ。高校野球どうなった。いい大学病院なんだけど、どこにもテレビがないから困るんだ」
「ははは、他に興味が行くということは落ち着いた証拠かな。もうじき家に着くから...。そうだ、今度、クラリネットで昭和の歌謡曲を吹いてあげるよ」
「それは聞くに堪えるものかい。前より少しでも上達したのかい。わしは、昔のど自慢で鐘三つ鳴らしたことがあるんだぞ。調子外れはだめだぞ」
「それは聞いてのお楽しみだよ。前に聞いてもらったのが1年以上前なんだよ。あれからずいぶん練習したから、自分では上達していると思っているよ」
「そうか、それは楽しみだな」