プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生285」
小川は、深美の受験に付き添って京都にやって来た。宿泊先のホテルに入ると、フロントの近くの喫茶のコーナーでコーヒーを注文した。
「深美は何がいい」
「眠れなくなると困るから、オレンジジュースにするわ」
「早いものだね、ロンドンから帰って来て、もう1年になるんだね」
「そうね。でも、決心してよかったわ。私にとってはそれまでと違って、何でも自分で決めることができたから、いろんなことができて高校生活はとても充実していたわ」
「そうか、自由に何でもできたんだ。結局、文学部ではなくてお父さんたちと同様に法学部への進学を決めたけど、何か理由があるのかな」
「お父さん、まだ入れたわけじゃないのよ」
「まあ、油断はできないが、先生の話だと国立大や早慶にも行けたということだから...」
「お父さんは、そっちに行ってくれた方が助かったのにと思っているの」
「そりゃー、東京にいてくれた方が安心だが、娘が行きたいという大学に行かせるのは、親の務めだからな。ははは」
「お父さんって、ほんとにいい人だわ」
「娘がそんなことを言っちゃあ、おかしいよ」
「いいえ、本当なら今はロンドンでスポットライトを浴びて、ベートーヴェンやモーツァルトを弾いていただろうに。わがままを言って...」
「いやいや、お父さんは、正直なところ、深美の考えはすばらしいと思うよ。音楽だけじゃなく他のことを勉強するのが、演奏をひとまわりもふたまわりも良質なものにするというのは」
「うれしいわ。でも文学じゃないから、直接、音楽に影響するということはないと思うけど」
「まさか、深美は法律を学ぶためだけに大学に行くというわけではないだろ」
「じゃあ、訊くけど、お父さんはどんな大学生活だったの。どんなことをすれば充実した大学生活を送れるの。教えてほしいわ」
「まずは4年で卒業するというのが、大切なんだ。制約された時間の中でどれだけのことを身に着けられるかというのが。お父さんも学費の半分は自分で稼がなければならなかったので、夏休みはバイトに精を出したよ。深美も少しはやった方がいいかもしれない」
「もちろんアルバイトはするつもりよ。で、勉強の方はどうなの」
「お父さんは、法学部に入ったものの法律の文章になじめなかった。浪人時代に文庫本でたくさんの文学を読んだからかもしれない。言ってみれば、法文や法律の解説書は実務に使用されるものなので、無駄を省いた、感情が入っていないものなんだ。実務で必要に迫られてからはそのよさがわかってきたが、学生時代は冷たいなじめないものだった。そんな気持ちを持って、大学の講義の初日が終わってから、大学図書館の英文学のコーナーに行くと...」
「ディケンズの『ピクウィック・クラブ』が書架に並んでいた」
「浪人時代に一番面白かった文庫本というのが、ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』だったものだから、迷わず手に取って閲覧用のテーブルに座りページをめくった」
「疲れていたお父さんは眠ってしまい、そこでディケンズ先生との運命的な出会いがあったというわけね」
「そう、それが1回だけというのなら、よくある話だけれど、お父さんの場合は今でも夢の中でのお付き合いが続いている。そうだ深美も大学で長く付き合いができる友人を見つけるといい」
「でもわたしはお友達より彼氏の方がいいわ」
「・・・・・・」