プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生286」
小川は深美の話を聞くと、すぐに表情を変えた。それは、いつもの誰に対しても愛想のいい人のそれではなかった。
「お父さん、どうしたの。ふふふ、いつものお父さんの顔じゃないわよ」
「深美、今日は受験の付き添いで来たのに、こんなことを言わなければならないのを許してくれ」
「それって、どういうこと」
「お父さんが若い頃はディケンズ先生との出会いがあったとは言え、何も目標はなかった。何とか就職ができたものの、慣れない東京暮らしでホームシックになってしまった。ディケンズ先生の箴言でお母さんとの恋愛が再燃し今があるが、全く先が読めない毎日だった。ただお母さんを幸せにしたいと思って生きて来たんだ」
「......」
「お父さんがお母さんを大切にし家族を大事にして生きてきたのはなぜだと思う」
「さあ、わからないわ」
「それは自分が叶わなかった夢を子供が叶えるのを見たいからなんだ。お母さんと一緒に将来に大きな夢を実現させる子供を育てることが、自分の人生でしなければならないことと思って来た。子供が大きな夢を持ち、それを実現させるのを見たいんだよ。それは音楽でなくてもいいんだが、やっぱり深美の場合、ロンドンにたくさんもう一度深美の演奏を聴きたいという人たちがいるんだから、彼らを失望させることがないようにしてほしい」
「でも、お父さんが私に大学に行ってもいいと言ったのは、ただ法律学や文学を学ばせるためだけでなく、友人をたくさん作ることも...」
「それはそのとおりだよ。深美が言うことを否定しないさ」
「それなら、なぜ今こんなときにわざわざそのようなことを言うのか、わからないわ」
「時間があれば、文学やお父さんが体験したことや人から聞いた話を例に挙げて説明することもいいのかもしれない。でも今日は余り時間を取ることもできないから、次のことだけを聞いてくれ、そしてそれを受け入れるかどうかは深美の自由だ。いいかい」
「ええ、わかったわ」
「深美は人生というのは長いと思うかい」
「私は小学生の時からいろいろなことをしてきたので、今までは長かったと思うわ」
「で、これからはどうなると思う」
「きっと自分がやりたいことを決めて歩んで行くことだろうから、あっと言う間に時が過ぎるということになるでしょうね」
「そう、深美が言う通りさ、人生はあっと言う間に過ぎていく」
「だからこそ、音楽だけでなく、恋愛もしたい」
「そう、そういう器用な人であってくれればいいが、深美はそうではないと思う。それに何より芸術と違って、恋愛は相手がいる。自分の希望通りには動いてくれないだろう。そうして相手のために膨大な時間が流れていく。お父さんがお母さんのような連れ合いに恵まれたのは奇跡としか言いようがないが、それが深美にも可能かということがひとつ。もうひとつは、芸術と恋愛の両立は難しいということなんだ」
「だったら、家庭をちゃんと築いてからピアノの練習を再開してもいいんじゃないのかしら」
「いや、どちらも若い頃にどれだけ打ち込めるか、愛情を注ぎこめるかが重要なんだ。若い頃に基礎的なことをきちんと学び、30代、40代に花を開かせるんだ。若い頃に心血を注いで学んだことや日々積み重ねた努力の成果がしばらくして現れてくるんだ。だから深美が芸術のために大学に行くと言うのなら応援させてもらうが...」
「私、実は迷っていたんだけど、お父さんの話で吹っ切れたわ。でも、お母さんがお父さんに出会ったように、私もお父さんのような理解のある人に...」
「まあその時はお父さんも祝福するよ」