プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生287」
小川が玄関のチャイムを鳴らそうと手を伸ばすと、深美がその上に手を重ねた。
「どうしたんだい」
「う、ううん。ただ、こうしたかっただけ。おとうさんへの深い尊敬の気持からかしら...」
「まあ、そう言ってくれるのはうれしいが、自分の気持がきちんと伝わっていないかもしれないかと思うと面映ゆい気がする。とにかく長い人生を充実させるのは、家族を基本にした、よい人間関係だと思うよ」
「そうね、よく覚えておくわ」
秋子がドアを開けると笑顔で話しかけた。
「試験、どうだった」
「おとうさんにも言ったけど、まあまあできたんじゃないかしら」
「でも、これからしばらく東京の大学もいくつか受験するから、そっちも頑張らないと」
「ええ、もちろん、これからしばらくは頑張るけど、お父さんたちが出た大学の合格が決まったら、他に行くつもりはないから」
「まあ、凄い入れ込みようね。とにかく中に入ったら」
秋子がお茶と生姜せんべいをテーブルに置くと、小川が話し始めた。
「深美も希望していることだし、合格だったら、京都で4年間を過ごすのがいいと思うんだけど」
「ええ、ええ、私も賛成だわ」
「えらく気乗りのようだが、不安はないの」
「それはもちろんないとは言えないけど、私の実家も近くにあるし、おとうさんが卒業して初めて東京に出てきた時より、戸惑いは少ないんじゃないかしら」
「そうだなあ、20年以上前のあの頃は関西弁で話すのに勇気が言ったし、半年で関西に戻りたくなったよ。ははは」
「私、東京とイギリスしか住んだことがないから、関西弁に興味があるわ。お父さん、関西弁教えてくれはる。お母さん、京都ってええとこどすか」
「ふふふ、なかなかできるじゃない。でも、京都と大阪の言葉は微妙に違うから使い分けは必要かもね」
「そうだな、派手な大阪弁は京都では使わないからね」
「ふうん、そうなんだ」
その夜、小川は寝床に入るとすぐに眠りについた。眠りにつくと、ディケンズ先生が憂鬱な顔で現れた。
「やあ、君とこうして話すのがずいぶん久しぶりな気がするが...」
「そんなことはないと思いますよ」
「まあ、それは置いとくとして、深美ちゃんが京都で生活を始めたらどうするつもりだい」
「先生、ということは合格できるんですね」
「そりゃー、どこの大学だって優秀な学生は受け入れたいもんだよ」
「そうか、さっそく起きて家族に伝えなくては」
「残念だが、それはご法度だ。合格発表までははらはらしているようなふりをしてくれたまえ。ただ、入学してひとつ困ったことが起こることを君に伝えておこう」
「......」
「トップ合格でしかもイギリスに何年もいて語学が堪能、しかもピアニストとして新進気鋭という人物が大学に入るとどうなるかということなのだが」
「そうか、そうなると学校もいろいろやってもらいたいと思うかもしれないですね」
「いや、学校は現役学生の頃は伸び伸びとやってもらえるよう環境を提供するだけさ」
「じゃあ、何が問題となるんですか」
「君が受験前に深美ちゃんにくぎを刺したように、友人関係、とりわけ男性との友人関係には気を付けないとね。まあ、君が言ったことをしばらくは胸にとどめるだろうが、どうにもならないシチュエーションというのが人生にはあるからね」
「例えば、どんなのがあるのですか」
「おほん、そ、それはだな、例えば、二人きりの時に、あなたがいない人生は生きている意味がないなんて言われたら、どうする」
「そ、それは困ります」
「でも、この先、君もそんなシチュエーションに出会うかもしれないよ。その時のためにどうしてやり過ごしたり、切り抜けるかを考えておかないと」
「......」