プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生289」

アユミにモーツァルトのケーゲルシュタット・トリオを演奏すると約束した日からちょうど3か月前に、小川は自分がよく利用するスタジオを借りた。
<今日は大川さんと相川さんと一緒に練習する、最初の日になるわけだから、いままでの成果を見て安心してもらわないと。それにしても良き指導者から的確な指導を受けるとどれだけ上達が早いかがよくわかった。転勤先で音楽教室に5年以上通っていたけど、4人の生徒に先生が教えていたので、手取り足取りというわけには行かなかった。それでも生徒の弱点を見抜いて懇切丁寧な指導をしてくれた。ぼくは音感とリズム感がないから、クラリネットを吹く前に歌ってみなさいと言われ、よく歌わされたものだった。おかげで発表会でなんとか無事に演奏することができた。でもやはり秋子さんと深美の指導は格別だ。おかげさんでなんとかこの難しい曲を通して吹けるようになった。あとは大川さん、相川さんといかに合わせていくかだが...>
「やあ、小川さん、やはり先に来られていましたね」
「やあ、相川さん、大川さんとご一緒かと思いましたが...。今日はお二人にわざわざ遠くからお越しいただくのですから、それくらいはさせていただきますよ」
「そうですか、ありがとうございます。ご安心ください。大川さんはもうすぐ来ます。実はベンジャミンも一緒に来ています。それから...」
「それから、もしかして...」
「そうです、アユミさんも来られています」
「えーーーーっ、なんでなんですか。今日はじっくり落ち着いて練習しようと思っていたのに」
「まあ、いろんな人にお話を聞き、今日のこの場で多くのことが解決できるんじゃないかと思ったんです。そうそう秋子さんにも連絡してあるので、もうすぐ来られると思います。ほら、来られたでしょ」
「秋子さん、皆さんが来られるんだったら、言ってほしかったなぁ」
「ごめんなさい、内緒にしておいてくださいと大川さんに言われたものだから」
「でも、この部屋はピアノがあるとは言え、3人入るのがやっとだし」
「ご安心ください。ベンジャミンと秋子さんは僕たちの練習が終わるまで部屋の外にいます」
「そうか3人が外にいてくれるんなら、問題はないですね」
「いいえ、アユミはこの部屋に残ります」
「ああ、大川さん、今、着かれたのですね。アユミさんもご一緒ですか。あれっ、アユミさんが残ると言われましたね。......。でも...僕だけ知らないというのはなんとかならないかな」
「わかりました。わたしから説明しましょう。実は今からわれわれ3人でケーゲルシュタット・トリオをアユミさんの前で演奏するのです」
「そんな―、1回も一緒に練習したことがないのに、いきなり本番と言われても困ります」
「いえいえ、普通に練習すればいいのです。秋子さんの話だとクラリネットのパートを一人で吹くのは及第点と言われてました。すでに小川さんは十分に練習でいい汗をかいているわけですから、お互いに貴重な時間を費やす必要はないかと」
「うーん、よくわからないなあ」
「あんた、呑み込みが悪いわね。要は今から2時間3人で音合わせをするのを見て、あなたの技術の習熟度を見せてもらうということよ。そうすれば、3人で演奏会をするように、何度も集まって練習する必要もなくなるでしょ。さあ、私はここで見ているから、さっさと始めて。2時間以内に通して演奏できたら、合格点をあげるわ」