プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生290」
小川は予期せぬ展開に最初は戸惑っていたが、30分ほど大川や相川と一緒に演奏して、友人との音楽での対話を楽しめるようになった。大川がヴィオラで明るい旋律を奏でるとそれに習って明るい旋律を続けることができたし、相川がピアノをダイナミックに奏でると小川も力強く旋律を歌わせた。小川の演奏はミスも多かったが、聴かせどころも随所にある楽しい演奏だった。2時間3人の演奏を聴いたアユミは、近くのファミレスに行きましょうと言った。6人がテーブルに腰かけるとアユミが話し出した。
「3人ともご苦労様でした。今回は小川さんのクラリネットの演奏を評価するのだけれど、ピアノとヴィオラがよく盛り立てていたわ。だからプラスアルファを加算させてもらうわ。恐らく、クラリネットだけなら及第点ぎりぎりだったでしょうけれど、3人仲良く演奏されたので、楽しく聞かせてもらいました。60点を合格とするなら、73点くらいかしら」
「ありがとうございます。では...」
「ははは、小川さん、そんなに声を震わせて言われなくても。小川さんや秋子さんには言いにくいだろうから、今から僕がアユミに話しますよ。ベンジャミンさんのことも僕が話します」
「オウ、オオカワ、タノムヨ」
「小川さんがこのモーツァルトの曲の演奏に挑戦したのは、桃香ちゃんが選んだ、ベンジャミンさんの指導を引き続き受けていただきたいからでした。そういうことですから、アユミはこれからは桃香ちゃんの指導は控えてください。ただ深美ちゃんが大学を卒業したら、以前のように師弟関係になるのは小川さんも望まれています。こちらはよろしくお願いしますとのことでした。ベンジャミンさんは音大でヴァイオリンを教えておられますが、自分の演奏を聴いてほしいと以前から思われていました。ベンジャミンさんはパートナーつまり一緒に演奏してくれるピアニストのことですが、最近になって偶然出会うことができたと言われています」
「あなた、回りくどいことはやめてちょうだい。桃香ちゃんのことは約束だから守ります。それから、ベンはわたしとやりたいと言っているんでしょ」
「ええ、何をやるのと突っ込みを入れたくなりますが、もちろんヴァイオリン・ソナタを一緒にやりたいということです」
「わかりました。引き受けましょう」
「オオ、ワタシ、ウレシイデス」
「で、小川、大川、相川トリオはどうなりますか」
「相川さん、そ、それはいくつかのことをやっつけてからになります」
「なるほどということは自作小説を書くだけではないのですね」
「ええ、『ニコラス・ニクルビー』を最後まで読まないといけないし、大川さんから『大いなる遺産』の台本を書くように頼まれています。秋子さんも音楽活動を本格的に始めるようになるので、司会など夫としてできることをしないと。それから二人の娘も親として...」
「わかりました。じゃあこれだけお願いしておきましょう。定期的に自作小説を私に送っていただけたら幸いです」
「いろいろしていただいているのに、申し訳ないです」
その夜、小川は心底疲れていたので、寝床に横になるとすぐにディケンズ先生が待つ夢の世界に入って行った。
「やあ、モテモテ君じゃなかった、小川君、元気かね」
「ディケンズ先生、確かにおっしゃる通りで、これだけ期待されるとどうしたらよいのかと思います」
「確かに君は秋子さん、二人の娘さん、大川、相川、ベンジャミンに愛され、頼りにされている。要望に応えるのに切り売りするわけにもいかないが、すべてをきちんとするのは難しいだろう」
「先生はそれをどのように解決されたのですか」
「ははは、私はその時期をうまく乗り切ったとは言えないだろう。朗読会を始めた頃から、生活が変わり、マイペースで仕事ができなくなった。ストレスが蓄積し体調を壊し、57歳でこの世を去った。まあ、ここはいかに取捨選択できるか、君の手腕が問われるところだろう。40代から50代にかけて大きな山が2つほどやってくる。それをいかに解決するかが、人生の分かれ目となると言えるだろう。いいかい、繰り返し言っておこう、長生きしたいのなら、八方美人にならないことだ。わかったね」
「それは僕が求めている回答ではありません」
「......」