プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生291」

小川はいつもは打てば響く太鼓のようにディケンズ先生から回答がすぐに返ってくるのに、今回は違うことに戸惑った。
「ディケンズ先生、きっとすぐに回答できるような問題じゃないんでしょうね」
「そうだ、そのとおりだ。細かいことは言いたくないが、40才を過ぎたあたりから朗読や素人演劇を始めて、人間関係がややこしくなったことは事実なんだ。大切にしていた家族ともうまく行かなくなった。それでも私は小説家としてできる限りのことをしようと、あらん限りの体力と知力を振り絞って頑張ったのだ」
「でもなぜ朗読会をしたり、劇に興味を持たれたのですか。1年か2年に1冊長編小説を書かれれば...」
「それは小説を書く身になってみればわかるだろう。簡単に言えば、創作意欲を呼び起こすものが必要だったのだ。ところで小川君、今日は何年何月何日だったかな」
「2009年3月20日ですが...」
「私は1812年2月7日生まれなんだが、私の200才の誕生日まであとどのくらいになるかな」
「3年足らずです」
「よし、まずそのことを銘記しておいてもらおうか」
「???」
「ところで、小川君は『ニコラス・ニクルビー』を購入できたまではよかったが、まだ上巻しか読んでいない。他にも『ハード・タイムズ』を読んでいない。それでも印象に残っている私の作品をいくつかあげることはできるだろう。どうかな」
「どの作品も先生らしい素晴らしい作品だと思いますが、まず先生が最初に出された長編小説『ピクウィック・クラブ』は主人公の描写がすばらしいと思います」
「なるほど、それから」
「第2作の『オリバー・ツイスト』、第3作の『ニコラス・ニクルビー』はそれぞれ救貧院、私立学校の虐待を取り上げて批判し、先生の社会派作家としての地位を確立させた作品と言えます」
「そうか、それから」
「第4作の『骨董屋』は薄幸の少女ネルを描いて、当時のおばさんたちの涙を枯渇させたと言われ、それだけの凄い悲劇を描かれたのだと思っています」
「うんうん、よしよし」
「第5作の『バーナビー・ラッジ』は障害を持つ子供とその母親の愛情を描いたじんと沁みる作品で、歴史小説の形を取り入れています」
「よしよし、いい調子だ」
「第6作の『マーティン・チャズルウィット』は先生らしくない中途半端さと不明確なところが多い作品で、私は今でも人には勧めません」
「......」
「その代わり、同じ年に刊行された中編小説『クリスマス・キャロル』は先生の代表作で、永遠に本好きの少年少女のよき友となることでしょう」
「そうだ、その通りだ」
「第7作の『ドンビー父子』は主人公のドンビーの性格が暗すぎて、シェイクスピアの悲劇を意識したのかと思いました。もしかしたら先生の意欲作だったのかもしれませんが、わたしはむしろフローレンスを主人公にした明るい小説にした方がよかったのではと思いました。」
「なるほど」
「第8作の『デイヴィッド・コパフィールド』は先生の自伝的小説と言われるだけあって、人物にリアリティがあり、また細部の描写も秀逸です。先生の長編小説の中では『大いなる遺産』と双璧の作品と言えるでしょう」
「確かに」
「第9作の『荒涼館』は主人公の心理を詳細に描くために一人称と三人称の章を使い分けた小説で、また推理小説の手法も取り入れられ、文豪として面目躍如の小説だと思います」
「いいことを言ってくれる」
「第10作の『ハード・タイムズ』未読なので感想は控えますが、第11作の『リトル・ドリット』は私が最も好きな先生の作品でこれからも折に触れて読みたいと思っています」
「そうだ、その調子だ」
「第12作の『二都物語』はフランス革命を舞台にした歴史絵巻で、そのスケールの大きさと登場人物の多彩さは『戦争と平和』、『レ・ミゼラブル』『モンテ・クリスト伯』と並び称せられると思います」
「君の言うとおりだ、小川君」
「第13作の『大いなる遺産』は先生の実質的な最後の作品で、最高の作品だと思います」
「で、第14作の『我らが共通の友』と未完の『エドウィン・ドルードの謎』はどう思っとるのかね」
「『我らは』はようやく手に入れた本を大切に読ませていただきましたが、2度目に読んだ時にベラの描写が妙に鼻についてしまって...うまく言えませんが、エスタ・サマソンやエイミー・ドリットのように好きになれませんでした。またその父親が娘を褒めすぎるのも鼻につきました。どうも登場人物が好きになれず終わってしまった感じです。それから『エドウィン』はやはり未完なのでコメントは差し控えさせていただきます」
「そうか、よくわかった。それだけ私の小説を小川君が読み込んでいるというのなら、やはり次のステップに進むのがいいだろう」
「次のステップというと、小説を書くことですか、それならもう始めていますが...」
「いやいや、小説を書くのは今まで通り、相川に指導してもらっていいものを作り上げてくれればいいんだ。それから大川から委嘱された歌劇「大いなる遺産」の台本も急がないでいい。次のステップというのは、私のことを研究してみてはということなんだ。大学の先生方が私のことや19世紀のイギリスのことを調べておられるが、君もわたしのことを研究してくれれば、読む本の選択肢もぐんと広がるし、今までなかなか夢に出て来られなかった私も出て来られるようになるだろう。話すからには共通の話題があった方がいいからね。興味があるなら、ディケンズ・フェロウシップのホームページを見るといいよ」
「わかりました、そうします」
「それから、さっき言ったように2012年の2月7日は私の200才の誕生日だ。もし古くからの友人の願いを聞いてもらえるなら、2つのことを...」
「それが小説と歌劇の台本なんですね。それで、いつまでに書けばいいのですか」
「私は今から丸2年の間、200才の誕生日のために小川君のような友人を訪ねて歩く、そうだな2年たったら、戻ってくるから、それぞれの進捗具合を尋ねるとしよう。その時に小説くらいは完成品を見たいものだ」
「わかりました。で、いつ出発されるのですか」
「3月末になるだろう」