プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生293」
小川はいつもの喫茶店を出てJR御茶ノ水駅を目指したが、駅前に古書のワゴンが並べてありその中にディケンズの本がまとめて並べてあったので、思わず小川は足を止めてワゴンに置かれてあるディケンズの『荒涼館』を手に取った。
「『荒涼館』の青木雄造、小池滋共訳は3種類あって、これは2巻本だったはずだが...」
そう言って小川がワゴンの向かいに目をやると小川と同世代の女性が『荒涼館』の下巻のページをめくっていた。状態が良ければ、購入しようと思った小川は、10分経っても手放そうとしない女性に思い切って声を掛けてみた。
「お楽しみの最中に話をさせてもらってよろしいでしょうか」
「まあ、突然、どうしましょ」
「どうしましょと言われても、困ります」
「困りますと言われますが、あなた、私に告白したいことがあるんではないんですか」
「ま、まさか。ぼくはあなたが手にしている本に興味があるだけです」
「そ、そうなんですか。...。ということは、あなたもディケンズ・ファンなんですの」
「まあ、そういうことです」
小川が微笑んでディケンズ・ファンであることを表明すると、その女性も頬を緩ませた。
「で、最初に読まれたのはいつのことですの」
小川は、どの作品が好きかやイギリスに興味があるのかというのではなく、最初に読んだ作品やディケンズの初体験がいつかということを訊いてきたので、これはもしかと思い、慎重に言葉を選んで答えた。
「ぼくが初めてディケンズという小説家を知ったのはディケンズ好きの少女から、『クリスマス・キャロル』という面白い映画があると言われて、一緒に見に行ったことからなんです」
「まっ、どうしましょ」
「それからしばらくは一緒に学校から帰ったり、たまに手紙を交換したりしたものでしたが、中学3年の頃に彼女は引っ越してしまい。数回手紙のやり取りをした後で音信不通となってしまいました。でも不思議なことに彼女が愛した文豪ディケンズのことは心にとどまって今でもぼくの心の支えとなっています。というのもぼくより文学的センスがあった彼女は、『クリスマス・キャロル』だけでなく、『大いなる遺産』『二都物語』『オリヴァ・ツイスト』「デイヴィッド・コパフィールド』の素晴らしさを話してくれたからです。できれば、彼女に会って話したいのですが、今となっては叶わぬ夢です」
「えっ、そ、それはわたしのことではなくて他の立派な女性のことだと思うわ。そう、きっとそうよ、そうだわ」
「えっ、なんと言われましたか」
「......。ほほほ、まあ、そんなに真剣になられなくても。ご縁があれば、わたしたち、再会することもあるでしょう。ところで小川さん、その女性の名前はなんて名前なの」
「小川さんって、なんであなたがぼくの名前を知っているのかわかりませんが、その女性は堀川康実という名前でした」
「や、やっぱり、あなた、い、いいえ、あなたって面白い方ね、きっとまたお会いできますね。ほほほ」
「どうすれば、あなたにお会いできますか。よろしけば、近くの喫茶店に入りませんか」
「い、いえ、それはだめです。そうね、わたしに興味がおありでしたら、とりあえずディケンズ・フェロウシップに入会されてはどうでしょうか」
それだけを真っ赤な顔をして話すと、その女性は小川に『荒涼館』下巻を渡して、靖国通り方面へと駆けていった。