プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生295」

小川がアユミの話に反応しないのを見ると、アユミの夫は気を利かせた。
「そりゃー、小川さんはアユミが一時ぞっこんに惚れ込んだようにハンサムな男性のカテゴリーに入ると思いますし...ぐえっ」
大川の鳩尾にアユミのパンチが入った。
「あなた、何言ってるの。小川さんは今でも十分、魅力的よ」
「アユミさん、それは褒めすぎです」
「あなた、何を言うの。私がうそを言っていると言うの」
アユミは立ち上がると小川の胸倉を掴もうとした。
「小川さん、ここは危険です。アユミを押さえておきますので、支払いを済ませて帰ってください。ぐえっ、ぐえっ」
「おふたりともすみません。失礼します」

家のチャイムを鳴らすと、秋子が扉を開けた。
「あら、またアユミさんと何かあったの」
「どうして、どうしてそれがわかるの」
「だって、午後5時頃帰ると言っていたのに、1時間も早く帰って来たでしょ。これはヴィオロンでゆっくりできなかったんじゃないかなと思ったの。アユミさんとご主人がさっき家に来て、1時間ほど話して帰ったけど、これからヴィオロンに行くと言われていたし」
「なるほど、秋子さんには隠し事ができないということがはっきりしたから、ひとつ話しておきたいと思うんだ」
「それってもしかして、中学時代とか昔の話なの」
「どうしてわかるの」
「だって、小川さんと大学生の時からいろいろ楽しい話をしてきたけれど、なぜだかわからないけど、小川さんは中学時代の話を全然しなかった」
「その通りだよ。中学時代に付き合っていた女の子の話をしても仕方がないと思っていたし」
「私もそう思うわ。もう過去のことなんだから」
「ぼくもそう思っているんだが...」
「どうしたの」
「その少女が成長して僕の前に現れたのさ」
「ふふふ、そうなの」
「そうなのって。それだけなの」
「状況はわからないけど、きっとその人もわたしたちのように家族を持っているでしょうし、家族とうまく行かなくなるようなことはしないと思うわ。それに通りすがりだけなら...」
「いいや、問題なのは彼女とぼくには共通の趣味、いや共通の心の糧があるということなんだ」
「心の糧、それは音楽なのそれとも...」
「そう、ディケンズ先生なんだ」
「わかったわ。じゃあ、何かあったら、すぐに相談してね。秘密にしないでね」
「そのつもりさ」