プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生296」
小川は秋子から頼まれたこともあり、3月の半ばに4月から京都で大学生活を始める深美を訪ねた。深美は京都市内にある秋子の実家からR大学に通うことになっているが、待ち合わせは京阪出町柳駅の改札口の前にした。小川がしばらく待つと改札口の向こうに深美の姿が見えた。
「お父さんが言うとおりに出町柳にやって来たけど、これからどこに行くの」
「ひとつは京都市民の憩いの場と言われる鴨川を1時間ほど散策しながらこれからのことを聞こうかと思う。もうひとつは京都の名曲喫茶柳月堂で最近よく聴くルビンシュタインのブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴こうかと思うんだ。付き合ってくれるかな。後のは無理には勧めないけど」
「ふふ、大丈夫よ。私、名曲喫茶でいにしえのレコードを聴くのは大好き。でもおとうさんの好きなのは、ブラームスのピアノ協奏曲のレコードならバックハウスの2番の方だと思っていたわ」
「そう言えば、そのレコードをヴィオロンで深美と一緒によく聴いたね。ところで深美は入学試験に合格してからお母さんの実家にずっといるけど、なにか不自由なことはないかな」
「欲を言えばきりがないから。でも充実した学生生活が送れそうよ」
「仕送りは十分ではないだろうけど...。アルバイトはどうするの」
「ご心配なく。イギリスに留学経験があるということで塾で雇ってもらえたわ。でも学生生活を楽しみたいから、必要なだけ働いて、勉学と音楽活動、特に音楽活動は最優先させるわ」
「そうか、で、ピアノとかそれに代わるキーボードとかはどうするんだい」
「練習をどこでするかってことね。おばあちゃんは家でしたらって言ったけれど、週1回、アユミ先生の先生のところに通うつもりよ」
「話し相手はどうだい。高校の友人でR大に入った人はいるのかな」
「ええ、寺東君と秋山さん、寺東君は法律の勉強に勤しむと言っているからわからないことは尋ねるつもり、秋山さんは中学の頃からヴァイオリンを習っているから、一緒に室内楽をするかも」
「じゃあ、おとうさんはいなくても大丈夫だね」
「まさか、わたしが暴走しないように、たまにはこうしてそばにいてもらわないと」
「暴走?......」
「ふふ、おとうさん、真剣に取らなくていいわよ。でも女性の場合、強い意志の男性が力任せに何かをやろうとすると...弱いものなのよ。今のところそんなことは微塵もないけどね」
「まあ、そんなところには近づかないことだよ。よし、四条大橋に着いたぞ。ここで折り返して、出町柳に戻るとしよう」
「じゃあ、話題を変えて、今度はおとうさんのことを何か話して」
「ディケンズ先生との約束で、2年以内に1つ小説を完成させる、2年を目途に歌劇「大いなる遺産」の台本を作るということになったんだ」
「ほんとなの。おとうさん、仕事も忙しいし、そんな時間あるの」
「まあ、小説は時間を掛ければいくらでもいいものができるだろうけれど、ある時点で終わることも必要だろう。ちゃんと終われば、原稿用紙100枚でも立派な小説だよ」
「でも、歌劇「大いなる遺産」の方はそうは行かないでしょ」
「いやいや、依頼主の大川さんは欲がないから、まずは挿入歌の歌詞を2つほど作ってくださいと言われている。まずそれを作って次の指示をいただくという感じで進めていくから、気の長い作業になるけれど、今すぐ完成する必要はまったくない」
「そうなのね。ああ、ようやく出町柳に着いたわ。こうしてぽかぽかお日様に当たりながら、のんびり歩くのもいいわね」
「そうさ、ここは晴れた日の景色は申し分ないよ。また来ようか」
「そうね。卒業の頃に、もう一度散策しましょ」
「よし、約束したよ」