プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生298」

3月末に桃香がベンジャミンと一緒に家に帰ってくることになっていたが、小川は仕事が忙しくその日に休暇を取ることはできなかった。それでも午後7時までには仕事を終えて帰宅することができた。玄関のチャイムを鳴らすと桃香が玄関の扉を開けた。
「おとうさん、お久しぶりです」
「ははは、名古屋でいろいろ教えてもらって、お行儀もよくなったんだね」
「そうよ、それからヴァイオリンの腕前も上がったのよ」
「そうか、それはよかった。ところでベンジャミン先生はいるのかな。やあ、お元気そうですね」
「オウ、オマエヒサシブリですね。カンバっとるか。おジョウちゃんはようガンバッとるよぉ」
「まあ、奥でお話を聞くことにしましょう。でもなんで今日、突然、来られたんですか。月に一度は妻のアンサンブルの練習の指導に見えられているし、それから桃香と一緒と言うのも...。もしかしたら、留学ってこと?」
「うん、うん、オガワはいつもカンがニブイのに今日はサエマスネ。しばらく預かってみマシタが、ヤッパリ、桃香ちゃんのようなサイノウがある少女はロンドンで修行するのがイチバンです」
「そうですか、名古屋で習い始めた頃から、こうなるんではと思っていましたが...」
「じゃあ、ハナシは早いデスね」
「でも、深美の時はアユミさん、その先生のつてということだったんですが、桃香の場合はどうなりますか」
「ソレは当然ワタシとワタシのつて、それから今勤務している音大のワタシの同僚のヴァイオリンの先生の恩師なんかもキョウリョクしてくれるでしょう」
「なるほど、それなら安心か。秋子さんはどう思う」
「わたしも賛成だけど...」
「わかっているよ。深美も桃香も家を離れて下宿生活だから、寂しいってことは」
「そうじゃないのよ。わたしが言いたいのは、深美の時はこちらからあれこれ注文をつけず、結局7年近くロンドンに留学したわけだけど、桃香の場合は3年くらいがいいんじゃないかと思うの。というのも、さっき小川さんが言っていたように、我が子と遠く離れてしまうのが寂しいというのが一番の理由だけれど、日本にはベンジャミンさんが教鞭を取られている音大をはじめ優秀な音楽家を出している音大があるんだから、留学は3年間にしてあとはそちらで学んだ方がいいと思うの」
「そうだなー、その方がいいのかもしれない。桃香はどう思う」
「わたし、ヴァイオリンがうまくなるなら、どこでもいいわ。こうしておとうさんとおかあさんと一緒にいるのも楽しいけど、先生からヴァイオリンのことを習うのも面白いわ」
「ベンジャミンさんはどうですか」
「ワタシには3人の息子がいますが、みんな音楽にそれほど興味を持っていません。コドモの意思を尊重すればよいのでしょうが、中学生に今すぐ将来のことを決めなさいというのは、少しコクというモノデス。アキコが言うように、とりあえず3年というのがいいのかもしれません」
「よし、それじゃあ、まず、桃香に訊くとしよう。3年間はお姉さんと同じようにロンドンで修行するということになるけど、いいかな」
「ええ、いいわ」
「秋子さんも3年間我慢してほしいけど、どうかな」
「ええ、それくらいなら大丈夫よ」
「ということで、決まったわけだけれど、深美の時はあれこれ相川さんが面倒を見てくれた。でも桃香の面倒は誰が見てくれるんだろう」
「オガワ、それは心配いりません。相川がまたロンドンに行けるようにすると言っています」
「へえ、そんなことができるんですか。まるで小説みたいだな」
「それからわたしも半年に1回くらいは、様子を見に行きます。イイデスカ」
「ええ、よろしくお願いします。桃香も3年間は一所懸命頑張るんだぞ」
「はーい」