プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生300」
小川は、大川と蕎麦を食べた後に大川と一緒に名曲喫茶ヴィオロンを訪れた。大川には久しぶりのヴィオロンだったが、エードリアン・ボールト指揮のホルストの惑星を聴いて、健闘を称えあってから別れた。相川が自宅に来る予定になっていたからだった。玄関のチャイムを鳴らすと秋子が出てきた。
「小川さん、もう相川さんいらしてるわよ」
「大分待たせたかな」
「いいえ、10分ほど前に来られたの」
リビングに入ると相川と連れの女性が微笑んだ。
「相川さん、お待たせしてすみませんでした。おや、こちらの方は...」
「いや、失礼、前もって言っておけばよかったかな。実は妻には姉がおりましてね」
「ということは、こちらは奥さんのお姉さんですか?」
「そうです、ぼくたちと同様、ディケンズ・ファンなもんですから、以前から紹介したかったのです。でも最近までずっとイギリスにいたんで紹介できなかったんです」
「お仕事でですか」
「ええ、そうなんです。大学の先生なんです。専門はイギリス文学です。20年ずっとイギリスにいたんですが、最近帰国したんですよ」
「まあ、どうしましょ」
「うん、そうだ間違いない」
「......」
「もしかして、この方の名前はなんとか康実と言われるのではないですか」
「あなた、昔のままなんですから、それを言えばいいのよ」
「じゃあ、堀川康実さんですか」
「小川さん、なんでこの人の名前がわかるの」
秋子と相川が唱和した。
「それは私から説明した方が、いいかもしれないわ。実は小川さんと私は中学校の時に恋人同士だったの」
「???」
しばらく気まずい沈黙が続いたが、秋子が沈黙を破った。
「それでしたら、今は私がいます。私から何も言うことはありません。ですので今すぐお帰り下さい」
「まっ、どうしましょ」
「まあまあ、おふたりとも落ち着いてください。ぼくはなんのことだかわかりませんが、小川さん、これはどういうことなんですか」
「即答は無理です。一言では話せません。手紙で説明しますので、誠に申し訳ないのですが、今日のところはお引き取りいただいた方がよいと思います」
「そうですか、わかりました。手紙をお待ちしています」
その夜、小川が眠りにつくとディケンズ先生が現れた。ディケンズ先生は南極大陸で犬橇に乗っている人のような恰好をしていた。
「先生、その格好から推測すると世界中を回られるのですね。まずは南極ですか」
「いやいや、まさかそこまではいかないさ。グリーンランドくらいまでかな」
「そうですか。温かいところには行かないのですか」
「いや、南米なんかは近くオリンピックも開催されるし行くつもりだ。いろんな国々を私が訪れて、私のファンが少しでも増えればと思うんだ」
「どんな方法でファンを増やされるのですか」
「それは小川君の時と同じようにこれと決めた人の夢に現れて、友人となり私の作品を掘り下げてもらって、文学に興味を持ってもらうようにするのさ。でも私のことを全然知らない人に話しても、徒労に終わってしまう。少なくとも『大いなる遺産』を読んでいてもらわないと、話が先に進まないんだ」
「そうですか、やはり、先生の作品と言えばまずは『大いなる遺産』ですよね。ぼくもオペラの台本を書いて『大いなる遺産』の普及のために貢献しますよ」
「そうだね、よろしく頼むよ。大いに期待しているよ」