プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生301」

小川は残業で夜遅くまで会社にいたが、終電に乗り遅れると帰宅できなくなるので帰り支度を始めた。深夜の会社は物音ひとつしなかったが、小川は周りに誰もいないことをよく確かめてから、独り言を言いはじめた。
「年度末なので、今日は遅くまで頑張った。ところで明日はもうすっかり定着した、小澤病院でのプロムナードコンサートの司会をすることになっている。もう10回になるからネタ切れになるかなと思っていたら、今回も大川さんが自分で編曲したものをいくつか提供してくれた。クラシックの名曲を中心にしたポップスありスタンダードジャズありのコンサートだけれど、10数名のメンバー全員が楽しく演奏している。レパートリーも増えたし、大きなホールで公演をしてもよさそうなものなのに、なぜか秋子さんは、まだまだと笑って言うだけなんだ。秋子さんのアンサンブルが自立したということで、ベンジャミンさんはアユミさんとのデュオで張り切っている。ベンジャミンさんが勤務する大学で何度かベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタをアユミさんと演奏したと聞いているけれど、一般の聴衆の前で演奏するのはいつのことだろう。デュオと言えば、相川さんと桃香のデュオもデヴューが近いと聞いているが、こちらは相川さんが、まず名曲喫茶ヴィオロンでやりましょうと言われているから、連絡があるだろう。相川さんが転勤を願い出て桃香についてロンドンに行ったのも驚きだったけれど、桃香の演奏を心底気に行って、一緒に演奏しましょうということになるなんて...。深美の世話をしている時は、ピアノで共演というわけには行かなかったけれど、ヴァイオリンなら共演できる名曲がたくさんあるし。......。でもぼくはもうすぐ50才になるけれど、みんなのように輝いていないな。クラリネットのピアノ伴奏をしてくれそうな、相川さんと大川さんは近くにいないし、まあ今は秋子さんのアンサンブル(秋子さんは気を使って、グレート・エクスペクテーション・アンサンブルと命名してくれたが)の司会者として頑張るさ。小説や歌劇「大いなる遺産」の台本も書かなきゃならないし。もうそろそろディケンズ先生が長旅から帰って来られる頃だけれど...。もしかしたら、今晩あたり夢の中に出て来られるかもしれない。小説や歌劇の台本を書くにあたってのヒントがもらえたらいいな。さあ、そろそろ会社を出るとするか」

家のチャイムを鳴らすと、秋子が出てきた。
「遅かったのね。お食事はどうするの」
「年度末で、やっつけないといけない仕事があったんだ。食事の用意をしてもらうのも悪いと思ったから、ファストフード店で丼を食べてきたよ」
「じゃあ、お風呂に入って、お休みになったら。明日、いえ、夜が明けたら、今日のコンサートの準備を一緒にしてもらわないといけないから」
「そうだね、そうさせてもらうよ」

小川が書斎に入りふと飾り棚に目をやると、見慣れないものが置かれてあった。信楽焼の狸の置物のようだった。
「秋子さんが買ったのかな。それならさっき話してくれただろう。握りこぶし大の大きさだから、可愛いなぁ。頭を撫ぜてみよう」
「こんにちは、小川さん」
「ふーん、話すこともできるんだ。こういうのって初めてだな。もう一度、撫でてみよう」
「お久しぶりです、ピクウィックです」
「そうか、ひとつだけじゃなくて、いくつか話せるんだ。もう一度、撫でてみよう」
「先生が小川さんと仲良くやってくれと言われていました。ラララララーン」
「......」
小川はしばらく狸の置物を見つめていたが、灯りを消して布団に潜り込んだ。小川が眠りにつくと、ディケンズ先生が現れた。
「やあ、小川君、私からの贈り物を気に入ってくれたかな」
「先生、これは掟破りではないんですか」
「上に許可を取っているから問題はないはずだ」
「そうですか、でもどうせなら、ピクウィック氏のミニチュアだったら、わかりやすかったと思うのですが」
「わしもそう思ったんだが、ピクウィックのイラストを描いた人から許可が下りなかったんだ」
「で、ピクウィック氏はいつでも癒してくれるんですか」
「いや、それについても制約があって、狸の置物は君だけにしか見えないことになっている。人のいる前で狸の置物に話しかけることは、しないほうがいいだろう」
「......」
「まあ、そういう制約はあるが小説や歌劇の台本の制作のために力になってくれるだろう。信じてもらえないだろうが、ピクウイックは歌がうまくて、泉のごとくメロディが浮かんでくると言っているから、君はそれに歌詞を付ければいいわけだ。もちろん大川が曲を付ける時には少し違ったものになるだろうが」
「わかりました。ピクウィック氏と仲良くやりますよ」
「私からのプレゼントを役に立ててくれるようなので、うれしいよ」