プチ小説「こんにちは、N先生8」

私は、勤務時間が変わり居座れる時間が減ったことを口実に職場近くの喫茶店での読書をしていませんでした。しかし通勤の電車の中での読書だけでは、ハードカバーを4ヶ月に1冊しか読まれないので、夜早く寝て朝早く家を出てその喫茶店で本を読むことにしました。その喫茶店は午前6時から営業しているので、午前4時に起床し午前5時20分に家を出ることにしました。こうすると午前6時5分から午前7時30分まで読書をすることが可能になりました。そこで私はすぐに『失われた時を求めて』の第二編「花咲く乙女たちのかげにⅠ」を読み始めたのでした。毎日というわけにはいきませんが、週3日利用すると、思ったとおり読書が捗り1ヶ月でこの本を読み終えることができました。
<それにしてもこの高校生らしき主人公の観察力と博識はすごいものだ。きっと小説の中ではそういった天才の存在も認められるのだろう。それに脇役の登場人物も個性豊かだ。主人公とノルポワ氏、ベルゴットとの会話は楽しいし、ジルベルトのことを思い詰めてかえって恋愛がうまく行かなくなる主人公の姿はなんだか変だが共感するなあ。それにしても主人公が、ベルゴットの「かたつむりの殻の形をした赤鼻」がたまらなく悲しかったと回想する場面は何度読んでも笑ってしまう。青年の潔癖というか理想としていた小説家の突然の失墜が書かれていて、ベルゴットには気の毒と思うが、なぜか微笑ましい。最後の70ページほど「土地の名、-土地」はそれから2年後のことが書かれているが、主人公と祖母と女中フランソワーズとのバルベックへの道中記のようだ。ここでアルベチーヌをはじめたくさんの娘との交流が第三篇「花咲く乙女たちのかげにⅡ」で描かれるようだが、風光書房の店主の話だとメタファーがこれでもかこれでもかと出て来るそうだから、楽しみだな」
ふと私が喫茶店の入口に目をやるとN先生が入って来られました。N先生は少し怒っておられる様子でした。
「先生、ご無沙汰しています」
「君ィ、もう少し本を読んでくれないと私の出番がなかなかやって来ないじゃないか」
「そ、それはどういうことですか」
「君もうすうす感じていると思うが、私は君がディケンズの作品か、プルーストの『失われた時を求めて』の1冊を読んだ時にだけ、君の前に現れることにしている。読書をサボり、私との付き合いを大切にしない君にはお仕置きだ」
そう言うとN先生は私を軽々と頭上まで持ち上げ、わー、ゆるしてーと言って足をばたばたさせている私をゆっくりと床に下したのでした。
「次はそれだけで済まないから、心するように」
「どうもすみません。怠け心が出てきたら、お仕置きなりなんなりしてください」
「ところで話は変わるが、最近、プチ朗読用台本を作っていないが、どうなっているのかな」
「2、3やってみようとしたのですが、うまく行かなくてやめました」
「ほう、それはどの作品かな」
「1年ほど前に『我らが共通の友』を読み終えたので、プチ朗読用台本を作ろうとしたのですが、芯になる登場人物がいなくて困りました。ベラとベラの父を中心に台本を作ろうとしたのですが無理でした」
「2つめは何かな」
「5月の連休中に『ドンビー父子』のプチ朗読用台本を作ろうと準備を始めたのですが、確かにドンビーの娘フローレンスは魅力的ですが、それにからむ父ドンビー、恋人のウォルター・ゲイをはじめ他の登場人物にいまいち魅力がないのです。従って、彼らが交わす会話にも...。私のプチ朗読用台本は小説の中のいくつかの場面を切り取ってつなぎ合わせるのですが、やはり登場人物の心を動かす会話が取り出せないと完成できないのです。『大いなる遺産』ジョーとピップのような会話が少しでもあれば、すぐにプチ朗読用台本はできるのですが」
「で、3つめは」
「『マーティン・チャズルウィット』をいつか読み直してみようと思います。これは思っているだけで、どうなるかわかりませんが」
「ディケンズ・フェロウシップの先生から、ディケンズの長編小説のすべてのプチ朗読用台本を作ってみたらと言われているのだから、君はそれに応えないといけないよ」
「......」
「そんな辛そうな顔をして。もっと明るく楽しいことを考えないと。そうだ。試しにジョーとピップを中心にしたプチ朗読用台本を書いてみたらどうだい。『こんにちは、ディケンズ先生』の第5巻(301話〜375話)では、歌劇「大いなる遺産」の台本を小川が書くことになっているんだろ」
「そうでした、そういうことは考えつきませんでした。先生の言葉は天から降りてくる階のようで、上昇志向を取り戻せます。また頑張ろうという気になります。ありがとうございます」
「そうか、それはよかった。来た甲斐があったよ」
そう言うとN先生は、近いうちにまた会えると嬉しいよと言われ、まばゆい春の日差しの中へと出て行かれました。