プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生19」
小川はいつも待ち合わせをする自宅近くの喫茶店で秋子が来るのを待っていたが、いつもよりずっと早くに
喫茶店に来ていた。「荒涼館」が残り50ページを切り、エンディングに向けて、盛り上がっていたからだ。
<でも、下巻の半ば頃から頻繁に出て来た、バケット警部は異質だったな。それにディケンズ先生は推理小説
みたいなところを取り入れて読者に興味を持たせようとしたんだろうけれど、殺人事件の真犯人がマドモワ
ゼル・オルタンスなのか、デッドロック夫人なのかはっきりせずすっきりしない。先生は夫人が犯人とはっ
きりわかるようにしないため逃亡させて死亡させ口を塞いでしまったのだろうけれど、長い間バケット警部の
捜査におつきあいしてエスタ・サマソンが夫人の遺骸を見つけて終わりでは、少し物足りない気がする>
小川は少し奮発して頼んだ2杯目のココアをすすりながら、再び独り言を言った。
<そのため他の善良な人の登場の機会が減り、少し残念だった。「荒涼館」の中にも興味深い人物がたくさん
出て来るのだから、その人たちの生活をもう少し描いてほしかった気がする。でも、楽しく読ませてもらった>
小川は「荒涼館」を読み終えたので、秋子が来るまで少し居眠りをすることにした。
しばらくすると夢の中にディケンズ先生は現れたが、少し怒り口調で話し出した。
「小川君は私がポーの「モルグ街の殺人」のデュパンのまねをしてバケット警部を登場させ推理させたと考えている
かもしれないが、どちらでもいいじゃないか。「バーナビー・ラッジ」で少し推理小説のような場面を描いたが、
不十分だった気がして、真犯人を追う人物を描いただけさ。いまでもそうだが、純文学、大衆文学、推理小説
それぞれ専門に扱う作家が当時もいたわけではないんだ。私は前にも言ったが、読者を喜ばせたり、驚かせたり
できれば...」
「それでも先生は文豪なんですから、ある程度の節度はあってもいいと思うのですが...」
「私は晩年自作の小説を自分で読む朗読会を開いたりしたし、演劇にも興味があったんだ。そんな幅広い創作
活動をした私が少し他のジャンルの小説のよいところを取り入れたからと言って、節度をなくしたと言われる
のは心外だ」
そう言ってディケンズ先生はぷいと背中を向けてしまったが、小川が先生の背中を見るとサンドイッチマンの
おじさんのように大きなボール紙を背負うようにしていた。ボール紙には、
「でも、つまらなかったら、ごめん」
と書かれてあった。