プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生304」

最後の曲、「エーデルワイス」が終わっても、拍手が鳴りやまず、聴衆が帰り支度をしないので、小川はにこにこしながら聴衆に向かって話し始めた。
「みなさん、ご清聴ありがとうございました。このような満場の拍手をいただき、グレート・エクスペクテーション・アンサンブルのメンバーも喜んでいます。私も司会者冥利に尽きるというものです。みなさんの拍手はわれわれの原動力になりますので、今後ともご声援よろしくお願いします。アンコール曲として、2曲用意しておりますので、そちらを聞いていただいて、今日のコンサートは終了といたしたいと思います。最初にピアノ独奏で映画「愛情物語」のテーマ曲でもある、ショパンのノクターン第2番を、それに続いてグレンミラーの「ムーンライト・セレナーデ」を聞いていただきたいと思います。本日はお忙しい中、ご来場いただきありがとうございました」

2時間余りのコンサートを終え、後片付けをして小澤病院を出る時には午後6時近くになっていた。
「小川さん、今からご自宅にお邪魔する時間がありませんので、この近くの飲食店で話をして私たちは帰ることにします。そうだなー、あそこのレストランに入りましょうか」
「大川さん、申し訳ないですが、喫茶店で少しだけということにしたいんです」
「と、言いますと」
「実はこういう流れになるといつも決まって大川さんが支払いをしてくださるものですから、申し訳なくて。いつもお世話になってばかりで、しかもごちそうもしていただくというのはどうかと」
「何をおっしゃります。ぼくは小川さんにいろんな面で世話になっていますから心配しないでください」
「えっ?わからないなあ、もしあるなら、教えてください」
「それは、しばしば小川さんがアユミを挑発してくれるので、昔よくお見舞いしてくれた、きつい一発を浴びせてくれるんですよ。これは何にも代えがたい、すばらしい贈り物ですよ」
「......」
「それに歌劇「大いなる遺産」の台本を作成していただけるなら、夕食代を払うくらい、軽い、軽い」
「ふふふ、大川さんも勧められるんだから、そうしましょう。でもおふたりは午後9時の新幹線で名古屋まで帰らないといけないから、2時間ほど食事して歓談することにしましょ」
「そう、じっくりと歌劇「大いなる遺産」について聞かせていただきましょう」
「わかりました。じゃあ、食事の後でお話しましょう」

食後のコーヒーを持ってくるようにと大川がウェイターに頼むと、小川が話し始めた。
「先ほどの台本の話ですが、今のところ着手していません。今はどのようなものにするかを考えているところです。台本を作成するにあたり参考にした文献などを紹介しながら、少し話してみたいと思います」
「あなた、まだ何もしていないの」
「まあまあ、アユミ、落ち着いて。小川さんが委縮してしまうじゃないか。やるせない怒りがあるのなら私が引き受ける。この場は小川さんの話をじっくりと聞こうじゃないか」
「わかったわ」
「まず、大川さんからお話をいただいた時、これはやりがいがあることだけど、大変だろうなと思いました。私はクラシックファンなので、オペラも少しは聴いています。と言っても、モーツァルトは、「魔笛」だけ、ワーグナーも「タンホイザー」だけ、イタリア歌劇もヴェルディの「椿姫」とプッチーニの「ラ・ボエーム」だけなのですから。大学に入る前に分量が少ないから読みやすいというただそれだけの理由で、モリエールの戯曲はよく読みましたが、どれほどその本質を理解できたかはわかりません。ただ台本はこんな感じで書くのかなというのは理解できたと思います。まずはそのモリエールの戯曲のような台本を書いてみようと思うのですが、ディケンズの『大いなる遺産』のすべてをオペラにすることはできないでしょう。取捨選択して小川版歌劇「大いなる遺産」を作るしかないと思います。『大いなる遺産』はピップの成長を描いていますが、それぞれのテーマを決め、その人物とのやりとりを描いて、ディケンズはそのテーマを掘り下げていこうとします。エステラとは男女の恋愛を、ジョーとは肉親の愛情や友情を、マグウィッチとは改心の尊さをそして人間が常に夢を失わないで生き続けるということがいかに大切かをぼくたちの心に訴えかけます。そんな素晴らしい小説を歌劇に翻案する作業に大川さんと一緒に携われるなんて、本当に有難いことだと...」
「それで、内容はどうなるのですか」
「話は変わりますが、ジングシュピールって何だかわかりますか」
「ええ、もちろん。音大を出ていますから。ジングは歌、シュピールは会話という意味のドイツ語でモーツァルトの「魔笛」はそのような形式でできているということですね」
「そうです。ぼくはイタリアオペラのように、もしかしたらそうでないのもあるのかもしれませんが、全編歌というのではなく、会話と歌で構成し、どちらかと言うと会話の部分を多めにしたいと考えています。でも、歌、アリアも何曲かいいのができたらと」
「どうだい、アユミ、小川さんはいろいろ考えて、今から取り掛かってくださるようだから、心配いらないんじゃないか」
「そうね、でも半年たっても同じだったら、こうするわ」
「ぐぅぇーーーっ、こ、これは一番、効いたな。ははは」
「......」