プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生306」
小川は、相川への手紙と小説の続きを書くためにいつも利用する喫茶店に来ていた。
<秋子さんのアンサンブルの手伝いで忙しいと言って、2年間、相川さんに小説を送らなかったけど、そろそろ送らないと。それから大川さんから委嘱を受けた歌劇「大いなる遺産」の台本も、そろそろ手を付けないと。相川さんが小説を添削してくれるというので小説を書き始めたが、元はと言えば、アユミさんから家計の助けになることをするようにと言われたのがきっかけだった。小説をあと5回で終わるように相川さんは言われているが、あと5回で人の心を動かすような物語にできるんだろうか。少なくとも、読者が読んでよかった、ためになったくらいは思わせないと書いた意味がないんじゃないかな。それから歌劇「大いなる遺産」の方は、3つのうちのどれを取るかくらいは決めておこう。つまり、全体のストーリーを追うかたちにするのか、一部を例えばピップとジョーの関係を中心に据えるのか、、エステラとの恋愛を中心にするのか、原作に登場しない人物を折々に登場させて小川版歌劇「大いなる遺産」を一から作っていくのかということになるだろう。3つめの案はやりがいがあるけれど、時間がかかるだろう。またその人物が司会進行役に徹しなければ、ストーリーから浮き上がってしまい、うまくいかないんじゃないかな。おや>
スキンヘッドのタクシー運転手が3人の同僚を連れて喫茶店に入って来た。彼ら4人は、小川の隣の隣のテーブルに腰かけ話し始めた。
「きみたち、ディケンズの講座も今回でちょうど100回目になるんや。あと900回はやってな、1000回まで頑張ろうと思うとる」
「ほー、そんなにネタがあるんかいな」
「そら、ディケンズは14もの長編小説を書いとるんやから、ネタが尽きるちゅーことはない。そやけどなー」
「そやけど、なんやねん」
「今回は100回ちゅーことやから、ちょっといつもとちゃう話をしようと思うんや」
「もったいぶらんとはよ話せや」
「実はな、ディケンズ作品のオペラ化について話したいと思うんや」
「やっぱり、いっちゃん有名な『クリスマス・キャロル』をミュージカルにという話になるんやろな」
「まあ、それが一般的な考えやが、わしには思い入れがある作品があってなぁ、是非、それを歌劇にしてほしいちゅーわけや」
「やっぱり、ディケンズ作品の金字塔と言われとる『大いなる遺産』なんやろね」
「ピンポーン、その通り。やっぱりこの作品が歌劇に一番むいとる。それでも場面が多く、どうしても取捨選択とナビゲーターが必要になる」
「でも、ナビゲーターちゅうても、作者のディケンズが自分の分身のようにピップを扱うのはおかしいやろ。ディケンズの分身はデイヴィッド・コパフィールドやからな」
「誰がピップやちゅーた」
「ほたら、誰にすんの。教えてちょうだい」
「わしのとっても、とっても変わった話を君たちが我慢して聞いてくれるちゅーんやったら、話してあげる」
「まだ休憩時間やから、どーぞ話して、にいさん」
「よし、わかった。まず、さっきも言うたけど文豪の小説を歌劇にするためには普通のアプローチではうまいこと行かん。取捨選択と優秀なナビゲーターが必要や。どこを取るかは台本を書く人が決めたらええことやが、やっぱりこの小説は、エステラとの恋愛や脱獄囚との心温まる話は必要なだけにして、中心に据えるのはピップとジョーのやりとりや。ジョーはピップが恋愛感情を持ったことのあるビティと最後は結ばれるから、そのあたりを取りあげるちゅーのもええかもしれん」
「それで、ナビゲーターは誰がするんや」
「そ、それはやな」
「勿体ぶらんとはよいいなさい」
「そ、それは、エステラ」
「えっ、それは意外性はあるかもしれへんけど...」
「そうか、おもろないか、わしはおもろいと思うんやが」
「あんたがおもろい言うてもわしは反対や。最後のところでピップとエステラは別れてしまうのに...」
「それは原作のことやがな。二次的な作品となる歌劇が原作を超えるためには、普通のアプローチではおもろないと思うんや」
「なるほどなー、仮にエステラが語り部となるんなら、ピップとエステラがハッピーエンドで結ばれるちゅーことが前提になるやろし、第一、ピップとエステラの恋愛場面を違ったアプローチで創作することもできるし」
「ええとこだらけやろ」
「なるほどなー。でもなあ、エステラの視野にジョーやプロヴィスを入れ込むんは無理とちゃうんか」
「まっ、そこはケセラセラ、なるようになるーって。そういうわけでなあ、このかたちで『大いなる遺産』のオペラ化をしてくれへんかなと思うとるんやが、あんたやれへんか」
とスキンヘッドのタクシー運転手が隣に座っている同僚に言ったが、その延長線上に小川がいたので、小川にも、どやと言っているように見えた。