プチ小説「亡き父を偲んで」
私の父が、2016年4月23日午後0時23分に約1年半の闘病生活の末、旅立ちました。腎臓がんの切除術、肺がんを抑制する薬の投与、療養型の病院での入院生活を耐え忍び、よく頑張ったと思っています。4月7日に検査のため近くの病院に入院し、10日ほどして病状が悪化し、21日には意識が亡くなり、23日に帰らぬ人となりました。2014年10月10日に大学病院の医師から腎臓がんであるとの告知があり、2014年12月22日の手術後は、大学病院の診察に連れて行ったり、自宅で夕飯を一緒に食べたり、介護をしたりして十分に日常生活の手助けをしたので、晩年の父に少しは役に立てたのかなと思っています。
父親には育ててもらった恩の他、様々な楽しい思い出を残してもらったという感謝の気持ちがあります。文章のかたちで父親の思い出を残すのも父への謝意を表すことになると思い、ここにいくつかを取り上げてみたいと思います。
家族旅行 母親が旅行好きということもあり、中学校の頃から高校の頃までよく家族旅行をしました。高1の時に佐賀の呼子や長崎に行き、高2の時に日光東照宮、塩原温泉や華厳の滝に行ったことを覚えています。
野球観戦 父親はずっと巨人ファンでしたが、球場に行くことはありませんでした。晩酌の際にナイター観戦をするのが何よりもの楽しみで、10年ほど前までは毎晩のように巨人戦をテレビで観戦していました。私は川上監督の時代までは巨人ファンだったので一緒にテレビ観戦をしていました。
家庭菜園 父親は余り高くない給与で3人の子供を育てるために、近くの荒れ地を開墾して、大根、薩摩芋、馬鈴薯などを作っていました。私もよく手伝いました。私の場合、冬場のおやつといえばストーブで焼いた薩摩芋だったのです。
毎晩酒宴 父親は酒好きで、会社の交友関係を広げるために毎晩午後10時近くまで職場近くの酒屋で酒を飲んでいました。それを申し訳なく思ったのか、給料日は少し早く帰るようにし、3人の子供にチョコレートやバナナを買って帰ったものでした。
熟年旅行 会社を定年退職してからは、時間ができたため、母親とふたりで全国を旅行して回りました。母親が新聞やDMで安価なツアーを探し出して来ては旅行をしていましたが、北は利尻島、南は沖縄まで日本列島を隈無く回ったようです。
カラオケ三昧 昔から歌うことが好きでカラオケが流行り出すとすぐにカラオケ喫茶に行くようになりました。カラオケ教室に行って指導してもらったりと最近はかなり熱が入っていました。昭和の歌謡曲が好きでしたが、最近はカラオケ教室で若い演歌歌手の歌にも挑戦していたようです。葬儀の際には、父のために、エレクトーンで古城(三橋美智也)、きらめく星座(灰田勝彦)、誰か故郷を思わざる(霧島昇)、王将(村田英雄)を演奏してもらいました。
湯割り焼酎 父は2年ほど前までは毎晩2杯湯割り焼酎を飲んでいましたが、ある日ガラスのジョッキーを持ち上げられなくなったと言ったので、プラスチック製のジョッキーに変えました。今から思うとあの頃から腎臓が悪くなっていたように思います。
長持ち上着 父や母は子供のためにお金を節約するため、衣類については極力節約していました。父の背広は特に長持ちで30才の頃に買ったものを60才を過ぎても着ていたように思います。
弱音不聞 一度として父親の弱音を聞きませんでした。肺がんが腹膜に転移したり、肺の腫瘍が大きくなっていたのですが、痛いという言葉を発することはありませんでした。意識がなくなる前日に咳をした時に顔を顰めていましたが、痛いと言ったり弱音を吐くということは一切ありませんでした。
自分の身を削って父は子供のために尽くしてくれたのに、私の人生は決して成功しているとは言えません。ですがこれから万一日の目を見ることができれば、母親はもちろん亡き父親のためにもできることを惜しみなくやって行こうと思っています。