プチ小説「耳に馴染んだ懐かしい音9」

二郎は就職して最初の勤務先が東京だったが、2年して京都に戻って来た。京都に戻ったことを森下さんのおばちゃんに伝えるとおばちゃんは、近況報告したいので四条河原町近くの喫茶店で会いましょうと連絡してきた。
「おばちゃんは、とりあえずマルイの前で待ち合わせてどこかに行きましょうと言っていたけど、来ているかな」
「あっ、二郎君、ここ、ここよーっ」
おばちゃんが声を出しながら駆け寄って来たので、おばちゃんとわかったが、風貌があまりに変わっていたので、本当にあの森下さんのおばちゃんなのかなと二郎は思った。
「ああ、おばちゃん、お久しぶりです。御変わりありませんか」
「二郎君はお母さんから聞かなかったのかな。実はおばさんね、手術して最近まで入院していたの」
「そうなんですか。ぼくは知りませんでした。今は大丈夫なんですか」
「ええ、おかげさまで、今は以前の生活に戻りつつあるのよ。クラリネットも中断していたけれど、来月からレッスンを再開するつもりよ」
「そうですよね。クラリネットはおばちゃんの生きがいですものね」
「そうよ。あなたの言うとおりだわ。おばちゃんの知っている人で家の花壇にお花を一杯咲かせることと富士山の名画を模写するのを生きがいにしている人がいて、その人たち、その話をすると生き生きしてくるのよ」
「ぼくもおばさんが好きなことをずっと続けられることを願っています。ところで最近はどんな曲をされていますか。またこれからどんな曲がしたいですか」
「実は今年の2月に発表会があったんだけれど、ずっと前からやりたかったチャイコフスキーのアンダンテ・カンターヴィレをしたの。いつもどおりわたしにはサポートをしてくれる人がいて4人の合奏を6人でやったんだけど、これがうまくいってたくさんの拍手をいただいたの。それで来年はもっと難しい曲をやろうと思っていたところ、体調を崩してしまって」
「体調を崩すほど難しい曲なんですか」
「というか、いろいろ悩んでいるとしんどくなっちゃって、病院に行ったら、悪性腫瘍があるから取らないといけないと言われて」
「どんなことに悩んでいたんですか」
「今度の発表会でやろうとしたのは、ベートーヴェンの交響曲第7番の第2楽章で、二郎君も知っての通り、葬送行進曲なの。傷ついた心を癒してくれる気もするけれど、やっぱり葬送行進曲には変わりないわ。それで他のいい曲がないかと週末に楽譜売り場に通い詰めているとしんどくなっちゃって」
「そうなんですか。楽しみでやっていたことが負担になることもあるんですね」
「それから今まで、一緒にレッスンを受けてきた生徒さんがふたり仕事が忙しくなってやめざるをえなくなったの。最初から一緒にしている人と私ふたりだけになってしまったわ」
「そうですかー、でもぼくに何ができるんだろ。クラリネットが吹けるわけでもないし...」
「いえいえ、私は二郎君のユニークな発想に期待しているのよ」
「そんなにぼくに期待してくれるんですか。お話を伺っていて、察するに次の発表会で何をするのが一番いいか知りたいということでしょうか」
「さっすが、二郎君、どう、いいのある」
「ぼくはあまり曲を知らないので、ヒントを与えることしかできませんが、おばちゃんは以前、1980年代から引退まで、ポール・モーリアのおっかけをしていたと言われていました。それでその曲をすれば打ち込めるんじゃないかと」
「でも小編成とは言え、オーケストラの曲よ。クラリネットの合奏では無理なんじゃないかしら」
「ぼくは以前クラリネットの独奏で蒼いノクターンを聞いたことがありますし、エーゲ海の真珠の主旋律は一本でつながりますし、ピアノ伴奏でクラリネットの演奏ができると思います。ポール・モーリアの楽譜なら中古で手に入りますので、挑戦して見られてはいかがですか」
「二郎君が言うとおりだわ。その2曲なら、打ち込めるし一途にやっていけそうだわ」
「お役に立ててよかったです。お身体を大切にして、頑張ってください。発表会には是非招待してくださいね」
「もちろん、来ていただくわ」