プチ小説「こんにちは、N先生9」
私は、読書のために利用していた職場近くの喫茶店に一年近く行っていません。というのも多い時はチェーンスモーカーが10人以上いて、競うように煙を排出しているこの喫茶店に1時間以上いて本を読むことに、身の危険を感じたからです。以前なら、ここに集うヘビースモーカーの方たちから煙のおこぼれをいただき、ニコチンによるインスピレーションが湧くかもと思ったのですが、昨年、4月に亡くなった父親の死因のひとつが肺癌だったこともあり、危険因子は回避した方がよさそうだと思うようになり、当分は行かないことに決めたのでした。思えばこの喫茶店でたくさんの本を読んだことは、私にとってとても有意義だったと思います。通勤時など電車の中で文庫本を読むことだけしかしなかった私が、喫茶店で腰を据えて1時間ほどハードカバーを読むことで飛躍的に読書量が増えたのですから。前から読みたかったハードカバーのディケンズの長編小説を読むことで創作意欲が湧いてきて、結果として、『こんにちは、ディケンズ先生』を発刊できたのです。ディケンズの長編小説を一通り読み終え、『失われた時を求めて』を全巻読む勢いがあったのですが、上記のことや自分の健康のことを考え、最近は週末のジョギングに精を出すようになりました。自宅を出て、芥川、淀川の川べりを走るのですが、本日も自宅を出て10分ほど走ってから芥川の堤防に駆け上がりました。しばらく走って対岸を見ると、小太りの黒いジャージを着た男性が見えたのでした。50メートルほど走り、橋を渡るとその男性が私を待ち構えていました。それはなんとN先生でした。N先生は、やあ、元気かいと言われましたが、私はなぜN先生がここにおられるのか訝りました。
「君はなぜ私がここにいるんだ、と思っているんだろう」
「ええ、そうです。例えば街中でばったり出会うというのなら、確率は低いですが、ありうることです。でも先生がなぜこの堤防の道に」
「実は、なかなかあの喫茶店に君が現れないので、どうすれば君に会えるか考えたんだ。それで君のホームページを丹念に読むことにしたんだ。そうすると、君が週末にジョギングをしていることがわかった。それで何度か週末に芥川と淀川をジョギングしていたら、ばったりと君に出くわしたというわけだ」
「そうですか。お手間を取らせました」
「ところで、最近、プチ朗読用台本の新作をホームページに掲載していないようだが」
「ええ、『骨董屋』から「ネルとおじいさん」の台本を作ってからは書いていませんし、これからも書かないと思います」
「それはどうしてかな」
「ディケンズの長編小説は14あるのですが、すべてが完成された読み応えのある小説とはいえないと思うからです。『大いなる遺産』『二都物語』『デイヴィッド・コパフィールド』『荒涼館』『リトル・ドリット』などはすばらしい小説で何度も読み直したいと今も思っている小説ですが、『マーティン・チャズルウィット』『ハード・タイムス』などはもう一度読み直したいとは思わないのです。それで読みやすい台本にしてもこれらは面白くないと思いました」
「『ドンビー父子』『我らが共通の友』はどうなのかな」
「その2作は何とか台本を作ろうともう一度読み直したのですが、印象に残るシーンが見出せなくて、断念しました。『ドンビー父子』は父と娘の仲直りの場面を、『我らが共通の友』はウィルファー一家の団欒の場面などを台本にしようとしましたが、面白い台詞や際立つ場面が見出せませんでした」
「ということは、もうプチ朗読用台本は書かないのかな」
「そうですね、私の場合、面白いなと思うと突き進むこともできるのですが、この4作にはそうさせるものがないのです」
「じゃあ、もうディケンズとはお別れなのかな」
「いいえ、すでにホームページには掲載していますが、ディケンズの小説の登場人物を特集を組んで紹介して行きたいと思っています。まずは主人公編というのを掲載しました」
「で、それからどうするの」
「そうですね、一般的な名脇役編、悪役編などと並行して、ユーモラス人物編、好人物編なども特集して、ディケンズの小説に興味を持っていただけるよう頑張るつもりです」
「そうか、安心したよ。まだまだディケンズとのおつきあいを続けると知って。君の成功を祈っているよ」
そう言うとN先生は、枚方大橋の手前でタクシーを捕まえてそれに乗り、阪急高槻市駅方面へと走らせたのでした。