プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生309」
時計を見ると午前10時を少し回っていた。
<まだ、お昼まで時間があるなぁ。大川さんが怒らないのをいいことにいつまでも先送りというわけには行かないから、エステラをナビゲーターとして歌劇「大いなる遺産」の台本を書いてみるか。でも、大川さんの考え方だと、エステラは実はいい人という考え方をしないといけないんだが>
エステラ
なんて素敵な人生なの。それは私の大切な人がいつもこうしてそばにいてくれるから、なおさらそう思うのよ。私たち、紆余曲折があったけれど、今はとても幸せ。こうなると早くわかっていれば、出会いの時からあなたに優しくしていたのに。
出会いの時はミス・ハヴィシャムがあれこれ言ったからにつらく当たったけれど、私の幼い心に何か温かいものが宿ったことを覚えているわ。あなたはどうだった。ねえ、ピップさん。
ピップ(声だけ)
ああ、ぼくの大切な人。君がいれば、それだけでぼくは幸せなんだ。だから今はとても幸せだよ。ぼくには君しかいなかったけれど...。でもぼくの若い頃は、いろんなことがあったんだよ。
エステラ
男同士の付き合いも大切だけれど、もっと私のために時間を作ってくれれば、もっとうまく行っていたわ。
ピップ(声だけ)
君の気持ちもわかるけれど、孤児として生まれたぼくが姉のもとに引き取られ、ジョーという姉の夫に大切に育てられたから、今のぼくがあるんだよ。ジョーの愛情があったから、今のぼくがあるんだよ。
<そうだな、こんな感じで始めて、まず第1幕の情景が出てくる。ピップとジョーが出てくる印象的な場面で構成しよう。それはまたじっくり考えるとして...。第2幕の最初はこんな感じかな>
エステラ
男の友情。男の人って、そんなことばっかり言っている。ハーバートと拳闘をしてあなたが勝ったから、ご褒美にキスをさせてあげたのにあなたからは感謝の言葉もなかった。それでもあなたが成長してロンドンに出て来て、リッチモンドではあなたと楽しく過ごしたわ。
ピップ(声だけ)
でも、君はそれからしばらくしてぼくから離れていった。金持ちのドラムルと結婚してしまった。
エステラ
あれは仕方なかったのよ。私の心の奥底には必ずあなたへの熱い思いがあった。これは信じてほしいわ。
ピップ(声だけ)
信じているよ。だからこうして今は君と一緒にいるんだ。
<ここで第44章のピップがエステラに告白する場面を入れることにしよう。この「大いなる遺産」はこのあと囚人マグウィッチのエピソードとその後のピップを描かなければならない。第3幕にマグウィッチのエピソードを入れよう。第4幕で、ピップはオーリックに殺されかけて、ハーバートに助けられ、その後はジョーの看病で元気になる。そうしてハーバートの会社の手伝いをして、やがて共同経営者になる。そうして将来の見通しが立ったところで、ピップは過去にうまくいかなかった、エステラとの恋愛を思い起こすという流れにしよう。最後はピップとエステラがミス・ハヴィシャムのお屋敷があったところで再会するということにするが、原作を大切にしながらもハッピーエンドの内容に変えて終幕にすることにしようか。......。でもエステラを主役にするというのは斬新ではあるけれど、悪女の雰囲気があるエステラの本来の姿が失われる可能性がある。肝心のところが描けず、舌足らずになる危うさもあるなぁ。おや>
ふと隣の席を見ると、20才位の小柄な女性が腰を掛けていた。しばらくして男性が向かい側に腰かけ、にこにこしながら話した。
「こうしてふたりでここに来るのも久しぶりだなあ」
「そうね。私たちが出会ったこの喫茶店はこれからも大切にしなくちゃね」
「例えばどんなふうに」
「何かの拍子に昔の懐かしい思い出が甦るようにしておいたら、いいと思うの。その時に私がどんな顔をしてどんなことを話したかとか、あなたがどんな本を読んでいたかとか。とにかく昔ここであったことを忘れないでほしいのよ。」
「そうしたら、どうなるの」
「そうしたら、あなたがここに来たら、必ず私のことを思い出すと思うの」
「でも、ぼくたちこれでさよならというわけでもないし」
「約束して」
「わかったよ。約束するよ」
「よかった。じゃあ、今度の週末はどこに行く」
小川は昔、ここで秋子と再会した時のことを思い出した。それからその時に読んでいた小説が、『リトル・ドリット』だったことを思い出した。小川は、そうか、これもいいかもしれないと独り言を言った。
小川が、テーブルの上に出したものを鞄の中に入れていると、スキンヘッドの運転手が再び店内に入って来た。熱心な聴講生も一緒だった。
「巌さんは、そう言うけど、『大いなる遺産』ってそんなにええんか」
「そら、間違いないわ。『二都物語』は世界で2千万部売れているとかで知名度では一番やろけど、『大いなる遺産』はディケンズ円熟期のディケンズらしい小説やわ。ディケンズ自身も歴史小説の『二都物語』があまりに売れていて、自分の代名詞になってるのがええと思ってないんとちゃうんかなと思うんや」
「ほたら、『ディヴィッド・コパフィールド』はどないやねん」
「この小説は、自伝的小説と言われて、おもろいのはおもろいんやが、登場人物の描き方が際立っているんで、すんなり誰でも受け入れられるかどうか...。ま、どの小説もええとことちょっとそれはどうかなと思うところがあるのが、ディケンズの小説やとわしは思う」
「......」
「登場人物の描き方もそうやし、社会的な問題提起もそうや。そんなことが、ディケンズの小説にはわかりやすく書かれてあって、読者がああでもないこうでもないと考えさせられる。そういうところが、文豪たる所以とちゃうんやろか、おもしろおかしいだけやのうて、立ち止まって自分なりの考えを出さなあかんようになるんや。『大いなる遺産』なんか、その最たるもんや。孤児の自立、改心した男を社会がどう受け入れるか、誰にも高等教育を受けさせるにはどうすればよいのかなどなど、そこここにディケンズが主張したいことが見え隠れしよる」
「あんたの言う通りや。でも、立ち止まるのが多いから、読むのに時間がかかるわ」
「そやからこそ、じっくり味わって読むんがええんや」
小川はにっこりほほえんでスキンヘッドの運転手に目礼し、ディケンズ先生と知り合えてほんとに良かったと独り言を言って、店を後にした。