プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生310」

小川は急いで自宅に帰ったが、秋子は家にいなかった。それで急いで書斎に行き、布団を敷いて横になった。
<秋子さんには、ぼくがディケンズ先生やピクウィック氏の指導を仰ぐことがあることを言ってあるから、変なうわ言を言ったとしても理解してもらえるだろう。これからは土日の午後は外から帰って来て、突然、布団を敷いて横になることが多くなるかもしれないな>

小川はいつもの喫茶店でコーヒーのお代わりをしていたので、すんなり入眠できるか心配だったが、布団の上で横になって5分もするとディケンズ先生が現れた。
「やあ、小川君、ようやく歌劇「大いなる遺産」に取り掛かることができたんだね」
「でも、ほんのわずかですから」
「まあ、わしは小川君ほどオペラについて詳しくはないが、モーツァルトの作品はよく聴いた。特に「後宮からの誘拐」は好きだった。この作品は、貴族の女性コンスタンツェを救うために貴族の男性ベルモンテが後宮に侵入し、すでにそこで召使となって働いている男女とともに王妃を助け出そうとするが、かなわず処刑になりそうになる。しかし太守セリムの恩赦を受け3人は無事に帰るといった内容だ。セリムの部下のオスミンが召使の女を自分のものにできなかったり、ベルモンテや召使の男をひどい目に遭わせられなかったので悔しがるところがあるが、何度聴いても、オスミンの歌はどぎつさもあるがユーモラスだ。それからコンスタンツェのアリア「私は恋をして幸せでした」(Ach,ich liebe,war so glücklich)は美しい。モーツァルトの音楽が全体的にすばらしいのは言うまでもないが、このひとつのアリアとオスミンの歌唱が聴きどころになっている気がする。小川君もまずはエステラが歌うすばらしい愛の歌と興味深い登場人物に面白い歌を歌わせることとを考えればいいんじゃないかな。大川夫妻にまずは先ほど考えた歌劇「大いなる遺産」の概要を見せて、次はエステラのアリアと面白い場面を考えればよい。そうして少しずつ進めていけばいいんじゃないかな」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
「それからピクウィックも小川君の役に立ちたいと思っているから、せいぜい使ってやることだ」
「でも、先生、どうすれば、ピクウィック氏と話せるのですか」
「小川君、これに息を入れて膨らませてくれたまえ」
「おお、これは、ピクウィック氏そっくりの...」
「小川さん、こんにちは、お役に立ちたいので、どしどし私を呼んでくださいね」
「わかったね。それから君がピクウィックを呼びたい時には、ズボンのポケットを探せばいい。そうして取り出して息を吹き込めばいいんだ。もちろん君以外にピクウィックは見えないから、こっそり相談することだ」

目覚めた小川は、秋子が帰っていないことを確かめて、ズボンのポケットを探ってみた。
「ポケットには、ハンカチだけしか入っていないはずなんだが...。おおっ、ここに穴があいている。おっ、中に何か入っているぞ。取り出してみよう。ディケンズ先生が言われるようにビニールの人形だな。よし、息を入れてみよう」
「小川さん、早速、呼んでいただいて、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそお世話になります。ところでディケンズ先生は、歌劇「大いなる遺産」の制作に当たり、ピクウィックさんにいろいろ力になっていただけるとのことでしたが、具体的に言うとどんなことをしていただけるのでしょうか」
「まあ、最初は四方山話をするだけでしょうが、歌劇「大いなる遺産」が完成に近づいたら、オペラについての突っ込んだ話になるでしょう。でも、先生は小川さんの才能を高く評価されていますから、ぼくはお呼びがあるまでは大人しくしています」
「いえいえ、ぼくはピックウィックさんのユーモアとウイットに「大いなる期待」をしていますから」