プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生311」

小川が夕食のカレーを作っていると、玄関のチャイムが鳴った。玄関のドアを開けると、スーツ姿の大川が立っていた。
「やあ、こんばんは。大川さん、仕事で来られたのですか」
「ええ、そうなんです。今日は東京本社に用事があって、こちらに来ました。小川さんは今日はお休みでしたか」
「ええ、そうです。それで相川さんに手紙と小説を書いたり...」
「続きがあるんですか」
「ええ、もちろん」
「何でしょうか、それは」
「夢の中でディケンズ先生と会ったりしました」
「がくっ」
「すみません。勿体ぶるのはやめます。実は大川さんにもお伝えしたいことがあるんです。望まれたものになっているかわかりませんが、歌劇「大いなる遺産」の出だしとストーリー展開の構想ができたので、今晩、電話で説明しようかなと思っていたところ...」
「そうですか。もしかしたらそう来るんじゃないかと思って来たんです」
「でももうちょっとしたら秋子が帰ってくるので、夕食の準備をしなければなりません。ぼくが夕飯を作っている間に、このメモを読んでいてください。これが第1幕の最初のところ、これが第2幕の最初のところです。全4幕にして、ナビゲーターとしてエステラを配しています。食事の準備が済んだら、説明をします。そうだお口に合うかわかりませんが、ぼくが作ったカレーを食べていただいてもいいですよ」
「ありがとうございます。それじゃー、御馳走をよばれようかな。では、メモを拝見します」

しばらくすると、秋子が帰って来た。食事を終えると大川が切りだした。
「メモを読ませていただきました。いい感じだと思います。小川さんは先程、説明をされるとのことでしたが...」
「このオペラを一味違ったものにして成功させるための最低必要なものとして、後世に残るような美しいアリアと好感の持てる登場人物が必要だと思うんです。アリアの歌詞はぼくが考えるとして、好感が持てる登場人物の方はできたら、大川さんのご意見を参考にしたいと」
「登場人物って、ピップ、ジョー、ミス・ハヴィシャム、エステラ、ジャガーズ、ウェミック、マグウィッチ、バーバート・ポケットなんかじゃないですか。オーリックは悪役だから無理でしょうね」
「物語を瞬間的にぱっと明るくするというのかな。だからチョイ役でもいいんです。もちろんエステラでもいいんですが、そのために新しい登場人物を創造してもいいと思います」
「なるほどね。ところでぼくも、言い出しっぺということもありますから、『大いなる遺産』を読みました。改めてこの作品の素晴らしさを実感した次第です。実は小川さんに言わなかったのですが、ぼくは音大生の時にもこの小説を読んだのでした。何度読んでも印象に残るのは、最後の場面です。ピップが「僕らは友達だよ」と言って、エステラが「離れていても、ずっと友達よ」と言い、ピップはエステラの手を取り、荒れ果てた場所から立ち去ったとあります。ここにある可能性を見出すのです」
「どういうことですか」
「まあ、くだけた言い方をするなら、友達よと言いながら、手を握るというのは何か思うところがあるんじゃないかと」
「なるほど」
「それで、アユミのような攻撃的ではあるが良識のある女性が過去を振り返る物語にして、いろいろ苦労したけれど、ピップという最良の伴侶を得たという形にするのも、オペラにするなら許されるかと。内容を多少変えるのもありかと」
「それなら、歌劇「大いなる遺産」という題も、変えた方がいいのかな」
「いえいえ、その必要はありません。それからさっきおっしゃられた好感の持てる登場人物も小川さんが考えてください。ぼくはアドバイスはしますが、肝心な点は小川さんが決められた方がいいと思います。きっとぼくよりいい考えを出されると思いますので。それから.....」
「何ですか」
「いや、やっぱり、どうかな」
「何ですか、気になるじゃないですか」
「わかりました。実は、このオペラの創作に当たり、いろいろなDVDを見ているのですが、先週見たDVDでヴェルディの「ナブッコ」の合唱曲「行け わが思いよ 黄金の翼に乗って」の素晴らしさを再認識しまして。ぼくもあんな合唱曲が作りたいと...」
「わかりました。アリアだけでなく合唱曲も充実させましょう」
「小川さんは親友から期待されて幸せね。ところで、これは妻からの希望で、心の片隅に置いてもらえたら、うれしいんだけれど...」
「何かな」
「原作を忠実に歌劇にするだけでは面白くないと思うから、ディケンズ先生の他の小説のいい場面を盛り込んでみたらと思うの」
「それは、もしかすると」
「もしかしても、もしかしないでも、『リトル・ドリット』よ。それから小川さんと私の思い出の一場面が挿入されても面白いんじゃないかしら、いつもの喫茶店、京都のおせんべい屋さん、御茶ノ水駅近くの楽器店なんかどうかしら、少しでも挿入されれば、いつまでも心に残ると思うの」
「うーん、そうだなー、その時にどんなことを言ったか、思い出しておくよ」