プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生312」
小川は、R大学の図書館3階の閲覧室にいた。久しぶりに3連休の休暇が取れたので、大阪にある実家を訪ねた後に深美の大学生活の様子を見たり学生時代の友人と会うことにしたのだった。今日は深美と待ち合わせて、京都市内を散策する予定になっていた。大学時代にいつも利用していた、イギリス文学のコーナー近くのテーブルに人がいなかったので、小川はそこに荷物を置き、イギリス文学の棚を見て回った。
<この後、ここに深美がくることになっているけれど、まだ1時間もあるから、ディケンズ先生の翻訳でも読もうかな。でも、田辺洋子先生は今年の4月に『二都物語』の新訳を出版されたから、あと未完の『エドゥイン・ドルードの謎』と『大いなる遺産』を残すのみとなった(2010年を想定しています)。大手出版社ではないけれど、ディケンズの長編小説をすべて翻訳されることになるのだから、それが成し遂げられれば、本当に偉業と言えるだろう。ぼくも田辺先生が翻訳された、『ニコラス・ニクルビー』と『ドンビー父子』は楽しく読ませてもらったけれど、他の人の翻訳で読んだ『ハード・タイムズ』はよく理解できなかった。学術的なアプローチで売り上げを度外視するなら、自由にディケンズ先生のよく知られていない作品を翻訳して出版することも可能なんだろうけれど、一度の出版で結構な費用がかかるだろうし、仮に1000冊制作した本がすべて愛好家に行き渡るわけではないし...本当に誰もできない偉業を成し遂げられたのだと思うな>
小川がぶらぶらと歩いていると昔、何度も手に取った北川悌二訳『ピクウィック・クラブ』が目に入った。
<この小説も、果たして日本の読者に受け入れられるかどうか。確かに主人公ピクウィック氏のキャラクターは秀逸なんだが、途中で主役がサム・ウェラーに移ったようで主人公の影がうすくなったような気がするのが否めない。何よりバーデル対ピクウィック裁判が始まってからは、裁判のことが中心になり、ユーモア小説とは違った感じになる。やはり誰でも興味を持って読むのは、『オリヴァ―・トゥイスト』『デイヴィッド・コパフィールド』『二都物語』『大いなる遺産』と中編小説の『クリスマス・キャロル』ということになるだろう。ぼくとしては、『ニコラス・ニクルビー』『荒涼館』『リトル・ドリット』も読者に受け入れられると思うし、ヒロインへに愛着を持って読み続ければ、『骨董屋』『ドンビー父子』なんかも大きな感動を残すことになるだろう。まだ深美と約束の時間まで間があるな。久しぶりにこの『ピクウィック・クラブ』を枕にしてひと眠りするか>
小川が眠りにつくとすぐに、ディケンズ先生がピクウィック氏を伴って現れた。
「やあ、小川君、元気かい」
「先生、ピクウィックさん、こうしてここでおふたりとお会いできるというのは意義深いことだと思います」
「小川さん、『ピクウィック・クラブ』では確かにサム・ウェラーが目立ちすぎると言われますが、先生は特徴的な話し方の悪役ジングル、法律家の悪役ドッドソンとフォグ、ユーモラスな少年ジョーなどこの最初の長編小説で数多くの興味深い登場人物を創作されているのですよ。だから私が霞んでしまうというのも致し方ありません」
「ところで話は変わるが、せっかくピクウィックのビニール人形を貸してあげたのに、小川君は利用してくれないんだね」
「先生、そんなことをしたら、周りから変な目で見られるんではないかと思うんです」
「だから、人目につかないところでやればいいんだよ」
「東京という大都会に住んでいるので、人目につかないというのは難しいと思います。それで秋子さんにこのことを話しているんですが、実行できていません」
「そうさ、そのことについて理解がある人の前でするというのもありなんだ。このあと深美ちゃんと会うのなら、実行してみるといい。もしかしたら...」
「何ですか」
「いや、そうなるとは限らんし、まあその時のお楽しみということにしておこう」
「......」