プチ小説「屏風岩の側で月を眺める」

「もうここまで来れば、1時間程で横尾に出られる。そこで高月さんとはお別れだね」
「本当にいろいろ指導いただいて。昨日の昼に北穂高小屋で突然雷雨になった時には、
 どうしようかと思いました。大キレットは初めてでしたから、先に進んでよいのやら
 下山すればよいのやらわからずにいたところ、一緒に下山しましょうと言っていただき
 助かりました。あの後ひどい雷雨になりましたが、加藤さんのおかげで、豪雨になる直前に
 涸沢小屋に着くことができました。今朝も一緒に出発していただいて、ありがとうござい
 ました。下山中に話していただいた登山についての心構えや体験談はとても参考になりました」
「そんなに言われると恐縮してしまうなあ。自分は同行の人と楽しい一時を過ごせるようにと
 自分の経験したことや人に聞いた話をしただけさ。高月さんも何回か登っているうちに
 たくさんの山好きな人に出会うだろう。その時に自分の体験談を話してあげると喜んで
 もらえると思う。そうするうちに度胸もついて、北穂南稜で見掛けた岩屋さんたちみたいに
 になるかもしれないよ。そしてあの屏風岩に」
「ぼくはロッククライミングはやりません。あんな怖いこと」
「そうかな、高月さんは今回、槍・穂高は2回目で。前回は天狗原を登る時、すごい恐怖感が
 あったと言われていたが、今回天狗原を登ってどうだった」
「まったく恐怖感はありませんでした」
「そうだろ。だからそのうち岩登りもできるようになるさ。ところで高月さんは登山の魅力は
 何だと思う」
「さあ今のところ、人がなかなか行けないところに行って、景色を自分の眼に焼き付けたり、
 写真を撮ったりすることですかね」
「そう、ぼくもそうなんだ。いわゆる絶景を体験するというのが、魅力のひとつではないの
 だろうか。ぼくの知っている人でシーズン中の満月の頃、穂高にやって来て屏風岩の側に
 ザイルを下ろしてそこで一夜を過ごす人を知っている。俗界から離れ、独自の方法で月を
 楽しむのは魅力のあることだと思うよ。だって、広い視野の中に月に照らされて
 北アルプスの山並が映し出されるのだから」
「なんだか仙人みたいですね。でもやってみたいなあ」
ふたりがそう話しているうちに、屏風岩はふたりの視界から消えた。