プチ小説「たこちゃんのカメラ」

カメラ キャメラ カメラ というのはカメラのことだけれど、中学生の頃、ぼくは両親が購入したオリンパスペンEE-2でよく景色を撮ったものだった。四国高松まで出掛けたりしたこともあった。いろいろ撮ったけど、その頃の写真はなぜかまったく残っていない。それでも写真を撮ることは楽しいということだけは心に残ったようだった。それが影響したのか、何の取り得もないぼくは両親の勧めもあって、高校に入ってなんとなく写真部に入ったのだった。一眼レフのカメラと三脚とレリーズを必携せよと言われたので、当時一番安く、坊さんが、「ほんまやったら、国宝なんやけどなぁ」と嘆くというCMで有名なオリンパスOM-1を購入した。これは、EE-2の印象が良かったからかもしれない。高校時代の部活については取り立てて言うことはないが、卒業後も撮影は続け、レンズも高校時代に購入した、広角28ミリ、望遠200ミリ、超広角24ミリの他に50ミリの接写レンズも購入し、植物園で花の写真を撮ったりしたものだった。それから大分後にヘール・ボップ彗星が来た時には、赤道儀つき100ミリの天体望遠鏡にOM-1を繋いで彗星を撮ろうと思いついて、50万円の望遠鏡をローンで購入したんだ。でも発注生産だったので、望遠鏡が届く頃にはお目当ての彗星は遙か彼方に遠ざかってしまい、米粒ほどの大きさになってしまっていた。仕方がないので星団や星雲を撮影しようとしたが、わが町高槻は空が明るく、長時間露光は無理だった。星団は撮れそうな気もしたが、球状星団M13を探し出すのに3時間近くかかり(斜めに最短距離で移動できないので、縦移動してから横移動となるため探すのに時間がかかる。 ちなみにアンドロメダ星雲らしきもの(宮沢賢治も言っているが、さかなの口のようなものにしか見えない。長時間露光して銀河らしい形となる))を見つけるまで5時間かかった)、能率が上がらないということでやめたのだった。それなら惑星はどうかなと思い、土星や木星を撮影しようとしたが、芥子粒ほどにしか見えず、100ミリの屈折式ではなく、200ミリの反射式を購入すればよかったと思ったものだった。結局、月の写真しか撮られないということがわかり、月食の写真を写したのを最後に望遠鏡はお蔵入りということになってしまった。この頃に佐治天文台で一晩星を観測したが、星の数の多さを羨ましく思ったものだった。それからはぼくの写真魂(そんなのはないか、怪しいものかもしれないけど)に火が付き、なぜか中判カメラで風景写真を撮ろうということになった。当時は6×6の中盤カメラはハッセルブラッドが大手のメーカーであったが、二眼レフカメラで有名なローライフレックスの6×6の中盤カメラを望遠レンズ、広角レンズ付きで50万円(もちろん中古だが)で購入したのだった。もちろんそれで撮影にすぐに出かけられる(セットだったので、大きなアルミ製カメラバッグに入っていたのだが)ということはなく、特大のリュック型のカメラバッグ(これは後の槍・穂高登山の際に大活躍してくれたが)とイタリア製の高級三脚を購入したのだった。しかしこれも2度(京都嵐山近辺と奈良明日香村)のひとり撮影会でカメラ本体に不具合が出たり、京都植物園のひとり撮影会で三脚をつけて写真を撮ることに高度な技術が必要なことがわかったりして、あきらめることになったんだった。結局、その少し前に購入したライカM6のボディにズミクロン35ミリを付けて撮るのが、手軽で納得できる写真が撮れることがわかり、それに沈胴式の50ミリ(赤エルマー)、90ミリ(エルマー)、21ミリ(エルマリート)のレンズを加え、今は満足している。駅前で客待ちをしているスキンヘッドのタクシー運転手は、家族で旅行に出掛けて写真を撮ったりするんだろうか。そこにいるから訊いてみよう。「こんにちは」「オウ ブエノスディアス ミエスポーサエスウナアウテンティーカベレーザ」「すごい自身ですね」「そらわしは嫁はんのことを愛していて、これからも変わらん。悔しかったら、あんたも言えるようになってみい」「今日の花田さんはいつになく攻撃的ですね」「そら、この前はステレオ持っとるかちゅーて、今日は高級カメラ持っとるかと訊きよる。そらデジタルカメラ持っとっても、再生する装置やコンピュータや印刷機がいるし、銀板カメラやったら、プリント代がかかるんやから、わしら庶民には所詮高級カメラは高嶺の花や。もちろん家族旅行とか行く時にはカメラは必携やが、中古のデジカメや」「そうですか」「まあ、船場はんがやってきたことは、大店の旦那さんが極道いや道楽でやることや。そやから、わしらには関係ないわ。それよりもっと健康にええ、うさぎ跳びとリアカーごっこやるでぇぇえ」そう言って、鼻田さんが自分の車の周りをうさぎ跳びで回り始めたので、後に続いたのだった。