プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生320」

小川は秋子に頼まれて、月例会となった小澤病院の玄関ホールでのライヴコンサートの司会をすることになっていた。会社に日曜出勤してから、午後からの催しに参加することになっていたが、開始の10分前になっても姿を現さなかった。小澤病院の院長小澤は秋子がいつになく落ち着きがないので、笑顔で話しかけた。
「どうかされましたか」
「いえ、ご心配はいりません。もし主人が遅れても、わたしが司会をしますから。ただ...」
「やはりご心配なことがあるのでしょう」
「ええ、実は、こういった催しがあるときにはいつも一番先に会場に来て、演奏仲間を励ましたり、お客さんに声を掛けたりするんですが...」
「きっと仕事が意外とたくさんだったり、交通機関が遅れていたりとかだと思いますよ」
「そうだといいんですが、先生とお知り合いになれたのも深美の事故だったんで、少し心配なんです」
「ははは、まあ、取り越し苦労だったようですよ」
「あら、遅かったのね。いつも早いのに、今日はどうしたの」
「そうか、いつも1時間前には来るのに、今日は遅くなってしまったね。ごめんごめん」
「何かあったんですか」
「仕事が手間取りまして。それにしてもたくさんの方が来られてますね」
「そりゃー、もう8回も開催していますし、診察の際に次のコンサートはどんな曲をするのだろうという話が出ることもあるんですよ」
「すっかり定着したんですね」
「そうですね。私はこのコンサートの魅力はいろいろな楽器の音が聞けるということだと思うんです。クラリネット、ピアノ、弦楽合奏、フルート、ホルンの音を間近で生で聴けるというのは興味津々です。またよく知られた曲を大川さんがアンサンブル用に編曲されるので、お客さんのノリもいいですし」
「ほんとに大川さんには感謝しないといけないですわね」
「そうだ、私は大川さんと一度も話したことがないんですよ。一度、お会いしたいなあ。そうだ、10回目を少し大きな規模で開催することにして、大川さんがご都合が良い時に来ていただくことにすればいい。不定期の開催ですから、10回目は、お盆休みか正月休みでもいいですよ。お忙しいでしょうから」
「お心遣いありがとうございます」
「先生、ありがとうございます。早速、今晩電話してみます。大川さんは出たがりですので、プログラムの中に彼の出番も入れておいた方がよいかもしれません」
「なるほど、それはいいですね。では、ついでといっては怒られるかもしれませんが、いつも司会をされている小川さんも何か演奏されてはどうですか」
「先生、それはすばらしい思いつきですわ」
「秋子、思いつきだなんて...失礼だよ」
「ははは、気にされなくていいですよ。で、どうです、何かされますか」
「先生、せっかくこういう機会を与えていただいたのだから、クラリネットと歌曲をやってもらいます」
「歌曲?なんですか。クラリネットだけではないのですか」
「クラリネットは私とふたりでドヴォルザークのユモレスクを歌曲はシューベルトの「流れ」(Der Fluss D.693)をやってもらいます」
「秋子さん、なんで、「流れ」なの」
「それをピクウィックさんに習うんじゃなかったの」
「そうか、なるほど!!それはいいアイデアだね」
「なんだか、面白そうですね。では小川さんのお手並みをコンサートで見せていただくことにしましょう」
「よろしくお願いします」