プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生321」

小川は小澤病院で開催されるコンサートのプログラムを見て、そのジャンルが幅広いことに感心した。
「それにしても、クラシックだけに限らず、ポップス、ジャズ、映画音楽、ワールドミュージックなんかを積極的に取り入れている。クラシックは小品だけでなく、最初にアンサンブルのメンバーでのソナタの演奏というのがある。前回はブラームスのチェロ・ソナタ第2番をしていたが、今日はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第2番をすることになっている。ぼくとしてはピアノと弦楽器が仲良くなりすぎて独立してしまうのを恐れるが、コンサートの始めに情感豊かに弦楽器のソナタを演奏してもらうのはお客さんも喜ばれることと思う。個人的には、メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番をここで聞きたい気もするが...」
「どうしたの小川さん、もうすぐ始まるわよ。おふたりの準備もできたわよ」
「じゃあ、始めようか」

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの演奏が終わると観客席から大きな拍手がわき起こった。小川は用意されたマイクを握り最前列に出て話し始めた。
「ご清聴ありがとうございました。今の曲は、ベートーヴェンが28、9才の頃に作曲された曲です。ベートーヴェンはみなさんご存知のように1770年に生まれ、1827年に亡くなっています。57才の生涯に亘ってすばらしい曲をたくさん残していますが、1795年に演奏家としてデヴューしてから1811年頃に交響曲第7番を作曲する頃までが一番充実していた時期です。交響曲第5番「運命」、交響曲第6番「田園」、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、ヴァイオリン協奏曲もこの頃に作曲しています。私はこの16年間の特に最初の頃がベートーヴェンの若き日の情熱がより感じられて好きなのですが、今お聴きいただいた曲もベートーヴェンが20代の時に作曲されました。その若き日のベートーヴェンの情熱を受け取っていただけたでしょうか」
やがて秋子を先頭にしてアンサンブルのメンバーが登場した。
「ここからしばらくは、映画音楽を続けて聴いていただくことにしましょう。メンバーのみんなで人気投票をして5曲を選び、いつも編曲を担当していただいている大川先生に送ったところ、先日、そのスコアが届いたので、この演奏会に間に合うように練習しました。では続けて、聴いていただきましょう。最初に「ひまわり」そのあとは、「魅惑の宵」「慕情」「旅情」「エーデルワイス」です。ごゆっくりどうぞ」

コンサートの最後はいつも小川がマイクを秋子に渡し、秋子がメンバーを紹介しながら、演奏することになっていた。秋子が小川からマイクを受け取ると笑顔で話し始めた。
「みなさま、いつもお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。私の夫から、いつも紹介してもらってばかりで、物足りなく思っていたところ、先程、院長先生から、ご主人の演奏が聴きたいと言われました。私の夫も少しはクラリネットが吹けるので、ふたりでドヴォルザークのユモレスクをすることに決まったのですが、それではみなさまに満足していただけないかと思います。話は変わりますが、私は以前から夫の声が、いい声だなと思っていました。それでみっちり専門家の指導を受ければ、一流の演奏家になれるのではないかと思いました。それでまずはこの次の次の10回目のコンサートで、ユモレスクとともにその成果を聴いていただこうかと考えています」
やがて秋子は何事もなかったようにメンバー紹介をして、「トロイメライ」「G線上のアリア」「ロンドンデリー・エア」を演奏して、1時間余りのコンサートを終えた。

帰途、小川はあきらめの表情で秋子に語り掛けた。
「秋子さんがあそこまで言ってしまったんで、もう後戻りはできないね。でも、専門家と言っても、ピクウィック氏をそこまであてにしていいんだろうか」
「ふふふ、それは未知数だけれど、ディケンズ先生も推薦されているわけだし、いつまでもピクウィック氏のレッスンを受けないというわけには行かないでしょう」
「ううん」
「ここは、願ってもないチャンスと身を奮い立たすところよ」
「そ、そうだね」