プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生322」
小川と秋子が夕食を終え寛いでいると、ベンジャミンから電話が入った。秋の気候がよい頃に高尾山に登りたいとのことだった。秋子も賛成したので、9月の最後の日曜日に一緒に登ることになった。
「ちょうどよかったわね。その時にピクウィックさんからレッスンが受けられるじゃない」
「うん、でも楽譜が入手しにくいみたいだよ。シューベルトの歌曲は何百とあるけれど、有名なのは、「セレナード」「アヴェ・マリア」「魔王」「楽に寄す」「ます」など30曲くらいかな。そういった曲の楽譜は入手しやすいけれど、「流れ」というのは、余り有名でないから難しいと思う。多分、秋子さんは、ぼくがルチア・ポップのアルバムでその曲をよく聴くから、歌わせたいと思ったんだろうけれど、ぼくが知る限りでは、他には、フィッシャー=ディスカウのシューベルト歌曲大全集に入っているくらいなんだ。以前、ぼくもクラリネットで吹いてみたくてインターネットで調べたけれど、購入できなかった」
「そうなの、それならピクウィックさんに直接尋ねてみたら。きっといい方法を教えてくださるわ」
「そうだね、そしたら今日は少し早く寝て、ディケンズ先生とピクウィック氏に尋ねることにするよ」
「それもいいかもしれないわね。でも、ここでピクウィックさんに尋ねるというのも、興味あるわ」
「なるほどー、それはいいアイデアだね。ちょっと、待ってよー、あった、あった」
「さあ、なんと言ってくださるのかしら」
「さあ、これでよしと。こんにちは」
「こんにちは。あっ、小川さん、奥さんもご一緒ですか。奥さん、いつもお美しいですね」
「ありがとう。ところでピクウィックさん、こうして来ていただいたのは、わけがあるのです。わたしがディケンズ先生から聞いているのは、ピクウィックさんは歌劇「大いなる遺産」の制作の際に骨を折っていただけるということなんですが、一般的な歌のレッスンもしていただけるのですか」
「安心してください。それもわたしの得意とするところです」
「でも楽譜はどうするのですか」
「われわれが住む世界にも文字、音符があり、国立図書館もあります。だからそれを活用すればよいのですが、ぼくには初見で演奏できるという特技と交響曲1曲分を丸暗記できるという特技と絶対音感があります。それで先生も小川さんのお役に立てると考えたのだと思います」
「そうですか。われわれが今困っているのは、シューベルトの「流れ」という歌曲の楽譜が手に入らないということなのです。何かいい方法がありますか」
「そうですね、それでは国立図書館に行って楽譜を丸暗記してきましょう。30分したら、またぼくを呼んでください」
「承知しました」
30分して、ピクウィック氏を膨らませると、氏はにっこり笑った。
「うまいぐあいに、お目当ての楽譜は貸出されていませんでした。下手をすると2週間待たなければならないのですが、運が良かったです」
「それで楽譜はどこにありますか」
「ぼくの頭の中にあります。われわれの世界の取り決めで、われわれの世界で使用している物を小川さんが住んでいる世界に持ち込むのには、許可が必要です。でも情報だけなら、いくらでも可能です。今からぼくが言うことを、秋子さん、五線譜に書き取ってください」
「わかったわ」
「そうして完成した楽譜で練習して、ピクウィックさんにレッスンしていただくのですが、場所としてはどこがいいですか」
「ご自宅では近所迷惑になる恐れがあるので、人気のない山奥がいいでしょう。このあたりだと高尾山の奥の方がいいでしょう」
「わかりました。そうします」