プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生21」

小川はしばらく前から大正14年に國民文庫刊行會から発行された「デエィヴィツド・カツパフィルド」を
読んでいたが、デイヴィッドが叔母のベッシー・トロットウッドを命懸けで訪ねて行き家に迎え入れられた
ところで一息ついた。京都に向かう夜行バスのカーテンを少し開けて外を見ると横殴りの雨が道路に叩き付け
られ、跳ね返っているのが見えた。
「春の嵐というのかな。でも朝にはやむようだから。それにしてもこの小説は大学時代に新潮文庫で読んだ
 けれど、なんてたくさん個性的な登場人物が出て来ることだろう。それに印象的な場面も数多い。やはり
 自叙伝的な代表作と言われるのも、頷ける。でもこの本は楽しいな。後ろ3分の1に原文が掲載されて
 いるし、漢数字以外の漢字すべてにルビが振ってあるし、訳者の平田禿木氏が独特の訳語を使っている
 のも面白い。「しっきりなし」「周章(あわ)てる」というのは大正時代の東京では当たり前に使われ
 ていたのかもしれないが、僕には新鮮だな」
時計を見ると午前2時だったので、小川はしばらく眠ることにした。

「小川君、元気かい」
「ディケンズ先生、心配していただき恐縮です。この前先生に前向きに生きろと言われ、いろいろ考えてみま
 した。そうしてひとつの結論を得たんです」
「何をかね」
「彼女と同じ趣味を持つのも悪くないなと...」
「そうか、君も自分の小さい殻に閉じこもるのではなく、秋子さんと一緒に何かをしてみようと考えたわけだ。
 それじゃー、音楽教室でクラリネットを習うのかね」
「いいえ、彼女が近く、名曲喫茶ヴィオロンでライブをする時に手伝ってあげようかなと思って、口上を
 考えています」
「そうか、楽しい会になることを祈っているよ。ではまた」

小川が目覚めてしばらくすると夜行バスが京都駅近くのターミナルに到着した。窓越しに外を見ると、
秋子が手を振っているのが見えた。
「どうして...、わざわざ来てくれたの」
「待ち遠しくて...。それに大事なお話があるから。数日前に桜が開花したから、円山公園に行ってみない」
「大事な話ならそこでなくても...」
「いいから、いいから」