プチ小説「耳に馴染んだ懐かしい音11」

二郎は、久しぶりに出町柳の柳月堂で大好きなモーツァルトのクラリネット協奏曲を聴いての帰り道だった。ファストフード店で腹ごしらえして外に出ると,、森下さんのおばちゃんが通りかかった。二郎が声を掛けると、おばちゃんはいつものようににこにこ笑って応えた。
「あら、二郎君、お久しぶりね。よかったら、また、おばさんの話聞いてほしいんだけど」
「いいですよ。じゃあ、そこの喫茶店でも入りましょうか。でももう午後8時ですよ。大丈夫ですか。地下鉄今出川駅近くに友人でもおられるのですか」
「いいえ、今日は年に一度の発表会があって、そのあと、クラリネットの先生と生徒が集まって、歓談したのよ。ホテルで夕食をいただきながら、2時間程話したんだけど、とても楽しかったわ」
「そうかクラリネットの発表会があったんですね。準備が大変だったでしょ。昨年一緒にされた方やクラリネットの先生と一緒にステージに上がったんですか」
「最初はそう考えていて、同じクラスの男性に、今年も楽しい演奏を一緒にしましょうと言っていたんだけれど、その方、お家のことで忙しくなられて、発表会に出られなくなったの」
「じゃあ、他の曜日の生徒と一緒に出られたのですか」
「それも考えたけど、正直、私、人見知りをする方だから、別の方法を考えたの」
「へえ、それってどんな方法なんです」
「ピアノ伴奏で、先生と一緒にある曲をしたいなと思ったの」
「何という曲ですか」
「確か、二郎君はモーリス・アンドレがオペラのアリアをトランペットで演奏したレコードのことは知っているわよね」
「というか、そのCDをあばさんにお貸ししたのはぼくですよ」
「そうだったわね。その最初の曲はなんだか覚えている」
「もちろん。レハールの喜歌劇「ほほえみの国」から君はわが心のすべてです。まさか、あの曲を先生とふたりで吹かれたわけではないでしょうね」
「いいえ、結局、わたし一人で吹いたの」
「でも、あの曲はテノール独唱用の曲だから、クラリネット演奏用の楽譜なんてないでしょう」
「ええ、そこはちょっと工夫して頑張ってみたの」
「どうしたんです」
「インターネット通販でテノール独唱用の楽譜を手に入れて、歌の部分をクラリネット演奏用に転調したの。私のクラリネットはB♭管なので、一音上げて、♯をふたつつければ、他の楽器との共演も可能になるの」
「変音記号がたくさん付くと大変でしょう」
「いいえ、もともと♭が5つついていたから、♭が3つになって吹きやすくなったの。先生が指導しやすいようにと、楽譜作成ソフトFinaleに入力してプリントしたものを先生に見てもらって、発表会で演奏したいと言ったら、先生が認めてくださったの」
「でも、この前は確か、あがり症だから、ひとりでは無理と言っておられたんでは...」
「私も最初は先生とするつもりだったんだけれど、先生が慣れないピアノ伴奏をされて、私に一生懸命合わせようとされるのを見ているとその上に一緒に吹いてくださいと言えなくなってしまったわ」
「そうですか、おばちゃんらしいですね。で、演奏はうまくいったんですか」
「2ヶ所大きなミスがあったし、時々異音が入るけど、一応最後まで続けて演奏しているから、初めてのソロ演奏にしては上出来じゃないかしら」
「それはよかったですね。で、来年はどうするつもりですか」
「今までやりたいと思っていた曲がやれたから、思い残すことはないんだけれど、来年はクラリネットを習い始めて10年目の年になるから、みんなでやるにしてもひとりでやるにしても充実した内容の演奏をしたいわ」
「それはどういった内容の演奏になりますか」
「さっき上出来っていったけど、ぎりぎり7点というところ、去年は共演の方と先生が頑張ってくださったので9点くらいかな。一緒に楽しくやって、9点以上取るか、ピアノ伴奏付きで一人で演奏して8点以上取れれば、それは私にとって充実した内容の演奏ってことになる思うわ」
「来年も頑張ってください」

「もちろん、頑張るわよ」