プチ小説「いちびりのおっさんのぷち話 天体ショーはお天気頼み編」
わしはちいこい頃から星を見るのが好きで、家の近くの公衆浴場に行った帰りに夜空の満天の星を見たもんやった。天の川は見えんかったが、万博以降に明るくなった大阪の夜空と違って、1960年代の吹田市の夜空は青っぽくなく、しっかりした黒だった気がする。天体ショーに興味を持ったんは、1963年7月の日食がきっかけで、わしはまだ4才やった。外で遊んでいて、突然、雨でもないのに真っ暗になりよって、えらいこっちゃー言うて走りまわっとった記憶がある。わしは近くにおった人におびえた顔をして近寄った記憶があるんやが、4才の子供が理解できるような説明をしてくれる、こども電話相談室のおじさんのような人は近所にはおらんかった。小学校の高学年の頃に日食、月食のことを授業で習い、その時の謎が解けたんやが、同時に日食は滅多に起こらんことを知ってがっかりしたもんやった。ほんで数年に一度起こる月食で我慢することにした。それからしばらくして(1972年)、ジャコビニ流星群でたくさんの流星が見られるということで、わしが当時住んでいた木造官舎の一番高いところに登り(それはお稲荷さんの祠のとなりやったんやが)、近所の人らと夜中の1時半まで眺めたが、1つも流れ星は見られんかった。その時は曇り空やったからと思うたんやが、どうも全国的に観測されず永遠の謎として扱われているらしい。高校1年の時(1976年3月)には肉眼でもはっきり見えるウエスト彗星が話題になり、当時一眼レフカメラ、200ミリの望遠レンズ、三脚、レリーズを持っているのをクラスメイトから見込まれて、撮影するように頼まれたんやが、うまく撮影できず、そのクラスメイトはわしを相手にせんようになったんやった。それからは天体ショーに興味がなくなり、1986年のハレーすい星(沖縄で観測できた)も全然興味が持てんかった。そんなわしやったが、1997年のヘールボップ彗星が出現した時には、今まで鬱積していた天文観測に対する憧れや探求心が爆発して、天文ショップで100ミリの屈折式の天体望遠鏡(赤道儀付きのええやつや)を買うてしもうた。発注生産でわくわくしながら望遠鏡が届くのを待ったんやが、望遠鏡ができた時にはヘールボップ彗星は遙か彼方にあり、望遠鏡で見ても全然見えんかった。わしは、そらせっしょうやで嘆いたもんやったが、もとをとろうと金曜日の夜には自宅を改造して作った観測所で真夜中に3時間程望遠鏡で夜空を観測することにした。1997年という年には火星は観測できなかったんやが、木星と土星はよく見えて、木星の衛星や縞模様、土星の環はよう見えた。ほんまゴマ粒くらいにしか見えんかったが、望遠鏡をお蔵入りにする前にそんなんでもええから撮影しといたらよかったと思う。月は撮影にぴったりやったんで、満月、半月(クレーターがきれいに写る)だけやなく、9月17日に皆既月食があったんで、その時も写真を撮ったんやった。それから急に仕事が忙しくなり、天体観測どころやなくなったんやが、球状星団や変わった色の明るい星が望遠鏡の視野に飛び込んでくるのを期待しながらひと時を過ごすちゅーのはそらええもんやった。それからもしし座流星雨や火球なんかがテレビや新聞で話題になっとるけど氷の粒が大気圏で燃えるだけやから、日食、月食、彗星なんかとはスケールが違うと思うんや。船場は、ペルセウス流星群が雨やったり、1月31日の皆既月食が見られんかったりと不運が続いているんやが、天体ショーを楽しんどるんやろか。船場ーっ、お前、どう考えとるねん。はいはい、にいさん、楽しんでますよ。特にいつやったか忘れましたが、流星群を見るには南の方がええといわれたんで、わざわざ新宮まで行って一晩過ごしたこともあります。その時は天気がよかったのですが、1時間に1個くらいしか流星は見えませんでした。1月31日の月食は月が欠けていく過程はよく見えたのですが、皆既月食となって10分程月が見えなくなって観測をやめてしまいました。もう少し待っていたら赤銅色の月が見えたでしょうに、とても残念に思っています。ホンマ、予想がつかんから、天候がよくなるまで根気よく待つちゅーのも大切やわな。ところで、兄さん、今後、期待できる天体ショーは何になりますか。そら2012年5月の皆既日食が印象に残っとるだけにまた皆既月食を見たいところやが、2035年に日本の一部でしか見られん。ほやから、次のハレーすい星の出現まで待つことにするわ。そ、それはいつ頃になりますか。そらハレー彗星は76年周期で地球にやってくるんやから、次は2061年やな。その時、兄さんは何才ですか。102才や。最近は一年ちゅーのがあっという間に過ぎよるから、心配せんでええよ。そうですか、それまでお元気で。