プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生326」
小川は、てっきり大川やベンジャミンが小川に同意して高尾山の山頂に向かうものと考えていたが、ふたりの考えは違ったようだった。
「オオ、スバらしい。ツギは、十六文キックや三十二文🚀砲をやってクダサイ」
ベンジャミンが興奮して、熱い要望を出すとアユミは応えた。
「そういうことだから、みんな協力してね。それじゃー、ベン、主人をこちらへ」
ベンジャミンが片腕を取り、アユミの方に導き出すといきなり十六文キックが大川の胸板にさく裂した。
「オガワ、ツギはあなたもテツダッテクダサイ」
そう言うとふたりは手際よくそれぞれが大川の片腕を取り、アユミの方に導き出した。アユミはまるでロープの反動を利用するかのように反対方向に少し駆けたかと思うとすぐに大川に向かって走りだし、手前2メートルのところでジャンプすると大川の胸板目掛けて蹴りを入れ、空中で一回転して着地した。
「ぐえっ」
大川はのけぞって倒れたが、地面すれすれで大きく両腕を開いて受け身をするとすぐに立ち上がった。
「ツギはフライングクロスチョップを...。グエッ」
「ベン、調子に乗ってはだめ。今日は大切な用事があったんじゃなかったの」
「アユミ、アンタ何でソノコト知っトンの」
「だってあなたが主人に、こっそり練習できる場所を確保してほしいと言ったから、わたしはこのくらいの場所が確保できれば十分かと思ったんだけど」
「オオ、ソレはお門違いデス」
それを聞くと、アユミはむっとした表情になり、
「希望したから、あなたにもプレゼントするわ」
そう言うと、少し反動をつけるとベンの胸板にフライングクロスチョップをさく裂させた。
「ウーン、とてもいい」
4人がプロレスごっこをしていると、みるみる観客は増え、通行を妨げるような状況になっていた。
「小川さん、大変なことになって来たわ。ここは何か言って、みんなを退去させないと駄目よ」
「確かにそうだけど、ぼくの知恵では...。そうだどさくさに紛れて、ここでピクウィック氏にご登場願おう」
小川はそう言うとポケットに手を入れ、ピクウィック氏に息を吹き込んだ。
「やあ、小川さん、こういうシチュエーションでぼくが出てくるのってありですか。先生に怒られますよ。それにしても、奥さんは、いつも美しいですね」
「そう言うところを見ると状況はわかっているね。で、どうしたらいい」
「そうですね。ぼくならここで一区切りをつけますね」
「一区切り?」
「そう小川さんが何か観客に語り掛け、観客がここにいるのはまずいと思わせたら...」
「なるほどやってみよう。おほん、みなさんお騒がせして申し訳ありません。わたしのつれが酔ってのこととはいえ、派手なパフォーマンスをしてしまいました。でもこれ以上やると、お咎めを受けてしまいますので、もうしません。ご期待に沿えないのは誠に残念ですが、ご了承ください」
小川が周囲の人に説明すると人垣は一重ずつなくなって行き、やがて小川、秋子、大川、アユミ、ベンジャミンだけが残った。
「お役に立てたようですね」
「ありがとう。でもここで気になっていた問題も解決してみよう。大川さん、アユミさん、ぼくの手元に何か見えますか」
「小川さん、何のことだかわかりませんが...」
「ああ、ピクウィック氏だね。一度は『ピクウィック・クラブ』を読んだから。ほんとに挿絵のとおりの紳士
だね」
「やっぱり、アユミさんもディケンズ先生のファンだったんですね」