プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生330」

秋子は気球に乗っているディケンズ先生を見て、しばらくはぽかんと口を開けていたが、ピクウィック氏に、用意をしてくださいと言われ、我に帰った。驚いたことに周りの行き交う人々の足が止まり、会話もなくなっていた。
「あら、どうしたのかしら。みんな静止したまま、動かない。ピクウィックさん、これって...」
「ええ、これはわれわれ、別の世界からやって来たものがよく使う手で、時間を止めるという方法です。他には、その場にいる人の記憶を消すというやり方があります。秋子さんも昔、こういう変わった体験をしたけど、こういう人物がいたはずだけど、証拠が残っていないということがあったと思いますが、それは本当は実際にあったのですが、証拠が残っては拙いと思って、別の世界のものが記憶から抹消したのです」
「確かにそんなこともあったような...。まあ、それはそれとして、これからどうすればいいの」
「私と一緒に先生が用意した気球に乗って頂上に行きます。ぼくに掴まっていてくださいね。それっ」
「まあ、ピクウィックさん、すごい力ね」
気が付くと、ふたりはいつの間にかディケンズのそばに腰かけていた。
「ようこそ、秋子さん」
「あなたが、ディケンズ先生なの」
「そのとおり。あなたのご主人の長年の友人です」
「小川さんから、いろいろお話を聞いていますが、まさか今日こんな形で、あなたにお会いできるとは思ってもみませんでした」
「私は小川君と親しくなってから、あなたとこうして話ができればと願っていたのですが、なかなか実現できませんでした。それがようやくこうして実現したことですから、この縁を大切にしたいと思っております」
「もちろん私もですわ。でもこれからずっとご一緒するというわけにはいかないんでしょ」
「そうです、基本的には、ピクウィックが窮地に陥った時に責任者の私が救出に向かうというのが、許されたパターンです」
「許されたパターンって、それはどういうことですか」
「人間の世界と同様に今私がいる世界でも、法律や規則があるのです。わたしが突然どこにでも現れるというのは許されていないのです。ピクウィックが窮地になったら、現れるというのなら、秋子さんたちの世界の方々にも受け入れやすいかと」
「なるほどそうですか。ところで今まで、小川さんの夢の中で交友関係を続けて来られたのに、なぜ今、こうして私の前に...」
「なかなか鋭いご質問ですね。秋子さんはしっかりしておられる。実はピクウィックの人形を考えたのも、こうして秋子さんの前に現れたのも、同じ理由からなんです」
「最近、小川さんとの会話ができなくなったからかしら」
「そう、その通りです。秋子さん、おふたりの娘さん、仕事、友人との付き合い、音楽と、本当に小川さんは忙しくされている。私の生誕200年ももうすぐなのに、ひとつの通過点というので終わってしまいそうな、不安感があります。私も心当たりがありますが、やはり40才を超えると家族、仕事での付き合いが中心となり、例えば学生時代からの付き合いを続けて行けなくなるということがしばしばあります」
「それは何が原因なんでしょう」
「単に時間が取れなくなったからと信じたいところですが...。何にせよ、私は家族との大切な関係を崩してでも、今までの関係を続けようという気持ちにはなれません。私なんかより、きっと小川君はご家族の方が大切でしょう」
秋子が文豪の横顔を見ると光るものが頬を伝った。