プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生331」
秋子は悲しむディケンズ先生の横顔を見てなんとか役に立ちたいと思ったが、妙案はすぐには浮かばなかった。
「先生、そんなに悲しい顔はしないで。先生と小川さんがもう少し会える回数が増えるよう一緒に考えましょう」
「秋子さんは、わしが思ったとおりのやさしい思いやりがある女性なんだ。よし、わかった。何なりと意見を言ってくれ」
「それでは、まず、小川さんの夢の中に現れるための要件というのを考えてみましょう。まずは小川さんが眠るということですが、浅い、深い、長い、短いというのは関係ありますか」
「1時間ほどの睡眠というのは困るが、3時間程度あれば十分だな。深い浅いは関係ないな」
「何か条件はありますか」
「それは小川君が私の著作を読んでいるということだな」
「読んでいるというのは継続的に一つの本を読み続けているということですか」
「そう、例えば、小池滋訳の『リトル・ドリット』を小川君が読み続けている間はいつでも小川君の夢の中に登場できる」
「それ以外は駄目なんですか」
「秋子さんも知っていると思うが、私は14の長編小説を書いているが、そのうちの『ニコラス・ニクルビー』と『ドンビー父子』は現在邦訳されたものがそれぞれ1冊しか出版されていない。また、『ハード・タイムズ』の邦訳も入手しにくいが、いずれも小川君は読んでくれている。小川君が私の本を一通り読んでくれた時点で、私の著作に対しての率直な感想を述べるというのは終わったと言える。新訳が出たとしても、一度読んでいるから、新鮮な気持ちで物語を読み進めていくのは難しい。物語の一部で新しい発見があったとか、新訳はここの訳し方が素晴らしかったという感想に留まるだろう。他にも私は小川君から色々な悩み事を聞いて、解決策を提示してきたが、最近、小川君は悩み事がなくなったのか、悩みの相談に乗ることもなくなった。そういうことだから、私が夢の中で小川君の前に現れたからと言って、何ができるのかと思うんだ」
「それで小川さんの夢の中に出てくるのが難しくなったのですね。要件が他にないのなら、私からの提案に移りたいのですが、他にはありませんか」
「要件は他にはないので、秋子さんの提案を聞くとしよう」
「その前に、ディケンズ先生、ご自身のことをお伺いしたいのですが、ご自身や近しい友人の方のことを考えてみて、友人との付き合い方がお若い頃からまったく変わらないという方をご存知ですか」
「うーん、そうだな、知っている限りでは、おらんな。やはり環境が変わったり、自由な時間が少なくなるとそれに引きずられて友人関係が犠牲になるというのはよくあることだ。お互いいい大人なんだから、干渉するのはやめようというのもあるかな。片方がそういうふうに働きかけるのをやめるともう片方も働きかけなくなる。そうしてやがては疎遠になって行く。そんな感じかな」
「先生が仰る通りだと思います。それではどうすればいいとお考えですか」
「そうだな。まずは機会を作ることが大切だろう。若い頃のように私の著作を読んでいる時にだけ、現れるという鉄則を緩和して、小川君が私の作品に触れただけで、夢の中に現れるというのがいいだろう。新訳が出たというのだけでなく、映画やドラマで私の作品が見られるというのも共通の話題として取り上げることは可能だと思う。ただ...」
「突然の方針転換に小川さんが戸惑うとか、そういうことはありません。今晩、小川さんの夢に出て来て、「今までは、私の小説を読んでいる時にしか現れなかったけれど、これからは話題があればすぐに現れるから」と宣言なされば、それで十分だと思いますよ」
「なるほど。秋子さんの言うとおりだ。早速、今晩、実行するとしよう」