プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生332」
秋子は文豪が喜ぶ顔を見て、少しは役に立てたのかなと思った。そうしてもう少し役に立てたらと思って、別の提案をしてみた。
「先生は、クラシック音楽はお好きなんですか。クラシック音楽を聴かれますか」
「秋子さんは以前、名曲喫茶ヴィオロンで秋子さんとアユミさんがライブをする時に、私が、「グリーンスリーブス」「ロンドンデリーエア」「春の日の花と輝く」をリクエストしたことを覚えているかな」
「ええ、もちろん。小川さんの夢の中でリクエストされたのでしたね」
「私はそんな素朴な歌も好きだが、クラシック音楽も好きじゃよ。私は1812年生まれなんじゃが、この前後に大作曲家も生まれておる。1809年メンデルスゾーン、1810年ショパンとシューマン、1811年リスト、1813年はヴェルディとワーグナーが生まれている。生前私は、ショパンの晩年の音楽を聴いたことがある。ジョルジュ・サンドとの生活がうまく行かなくなったショパンは、イギリスに活路を求めて、1948年4月にロンドンにやって来た。その時に少し彼の演奏を聴く機会があった。今ではクラシックな(古典的な)音楽と呼ばれるが、当時は、ピアノやオーケストラの音楽が主流だった」
「そうなの、ショパンのピアノ演奏を聴いたことがあるのね。他の作曲家はどうなのかしら」
「残念ながら、他にはない。話は変わるが、ヨハン・セバスティアン・バッハと同じ年に生まれたヘンデルはイギリスに帰化し、「水上の音楽」や「王宮の花火の音楽」を作曲した。私が生まれる50年以上前に亡くなっているが、私の小説にヘンデルが出てくるのを秋子さんは知っているかな」
「ええ、もちろん。『大いなる遺産』の主人公ピップの友人となる、ハーバート・ポケットがピップにつけたあだ名でしょ。ハーバートはピップの実家が鍛冶屋ということを知っていて、ピップがロンドンに出て来て一緒に生活することになった時に、「陽気な鍛冶屋」を作曲したヘンデルと君を呼ぶと言って、それからはピップのことをヘンデルと呼んでいます」
「そうだ、そのとおりだよ。残念ながら、私の生まれた国では、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリアのように偉大な作曲家がたくさんいるわけではない。特に私と同時代の作曲家はいないと言っていい。それでも私の後の時代では、エルガー、ディーリアス、ヴォーン・ウィリアムズ、ブリテンなどがいるし、ドヴォルザークやシベリウスはしばしばイギリスを訪れ、自ら指揮をした。イギリス人は音楽好きな国民と言えるだろうが、大陸とは少し違った音楽文化があるのかもしれない」
「私は小川さんから、『リトル・ドリット』のヒロイン エイミーのおじさんがクラリネットを吹くと聞いたわ」
「『荒涼館』には楽器販売をする人物も出てくる」
「先生の作品にクラシック音楽に関することの記述があるから、先生も少しはクラシック音楽に興味をお持ちではないかと思うんですが」
「その通りだが、それで何かあるのかな」
「先生の作品以外にも、音楽の話題というのも小川さんとの会話を楽しめるかもしれません。私たちの子供2人も、将来は音楽家になる予定ですし、アユミさんもベンジャミンさんとデュオで頑張っておられますし、私もアンサンブルで頑張っています」
「そうだな、秋子さんの言う通りだ。これまでも音楽の話題で小川君の夢に出てきたことはあるのだが、今まで以上にちょっとしたきっかけだけで、夢に登場するようにしよう」
文豪が落ち着いた調子で話し掛けたので、秋子は明るい表情で応えた。
「少しはお役に立てましたか。ではそろそろ、高尾山に戻りませんか」
「名残惜しいが、秋子さんとはまたお会いすることもあるだろう。じゃあ、ピクウィック、秋子さんを下してあげてくれ」