プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生333」
ピクウィック氏が、腕をつかんで離さないでくださいと言ったのでそのようにしていると、目の前にぽっかりと穴があき、地上のパノラマが開けてきた。秋子はピクウィック氏が言われるままに、前へと進んで行った。
「何か、映画の一シーンのようね。なんだったかしら」
「「メリー・ポピンズ」じゃないですか」
「そうそう、それよ。でも不思議だわ」
「何がです」
「だって、ピクウィックさんがディケンズ先生の小説の中に登場したのが、1836年頃でしょう」
「ええ確かに」
「映画「メリー・ポピンズ」が製作されたのは確か1964年でしょう。なんで、そんな後のことがあなたにわかるのか、不思議だわ」
「そうでしょうね。でも知る意欲があれば、秋子さんが住む世界と同じように調べ物をすることはできるんです。不思議と言えば、ディケンズ先生についても言えるんではないですか。なんで1870年に亡くなった文豪がそれから100年以上経ってから、日本の若者の夢の中に現れたのかと。それは説明がつかないことですが、あったら面白いことではないですか。世の中には、真実と虚構(うそ)がありますが、何も真実を追い求めるだけが心を豊かにするとは限らないでしょう。ちょっとした虚構で救われることだってあると思います。ちょっとした理にかなわないことがあっても、それを受け入れることで幸せになることだってあります。そうじゃないですか」
「ピクウィックさんが言われることはわかりますが、虚の世界が私たちの世界に入り込む恐れはないのですか」
「それは当事者それぞれの意識によると思います。われわれの世界と人間の世界は仲良くやって行かなければならないのですから、自分の置かれている立場から大きくはみ出るようなことがあってはなりませんが、少し顔を出すくらいなら許されると思います。秋子さんが住む世界の人々は、科学の時代と言って、今でも真実を追い求めていますが、超自然の世界はあって、どうしても科学で説明がつかないことはあるのです」
「なるほど、言われることはよくわかりますが、ルールを守るというのは踏み外さないでほしいわ」
「......」
「そろそろ地上に降り立つけれど、これから私はどうすればいいの」
「今は時間が止められていますが、1分すると時間は動き始めます。小川さん、大川さん夫婦、ベンジャミンさんと別れた時と同じようにして会話をされればよいと思います」
「大川さんにはあなたの姿は見えないのね」
「ええ、それはこれまでと同じです」
「ピクウィックさんはこれからどうするの」
「僕は、人間の世界でやってみたいことがいろいろあるのです。いろんな試みをしながら、小川さんに音楽の指導をしたいと思っています」
「面白そうだけど、ルールは守ってね」
「......」