プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生336」

大川は自分が背負って来たキーボードを下すとスタンドの上に乗せた。アユミはすぐにその前に座ると、スティービー・ワンダーのように嬉しそうに首を振り、前奏を弾き始めた。
「さあ、私がしっかり伴奏するから、小川さん、あなたは決して、決して、決して音を外さないでね」
「そんなぁー、プレッシャーがかかるじゃないですか」
「小川さん、アユミのパンチ、キックなら僕が引き受けますから、思う存分、歌ってください」
「さあ、歌って」
「ヴィー ライン ゲザンク ジッヒ ヴィンデット ドゥルヒ ヴンデルバレル ザイテンスピーレ ラウシェン...」
<さあ、これなら文句を言われないだろう。大好きな歌曲だから、歌詞もメロディーも覚えている。楽譜もいらないくらいだ>

「ピクウィックさん、どうです。何か言ってください」
「私は楽譜に忠実にと言ったはずです。鼻歌なら、及第点ですが」
小川は一所懸命歌ったのに評価が低いので、がっくりと肩を落とした。
「でも、小川さん、僕の言った通りにしなかったから、不合格というわけではありません。小川さんの歌は人の心を動かす力があります。だもんで、手を入れなければならないところは山ほどありますが、すばらしい歌唱だったので、合格とします。秋子さんもアユミさんも異論はありませんね」
「秋子、あなた、小川さんがこんなに素晴らしい歌が歌えるなんて、知っていたの」
「ええ、でも、小川さんは照れ屋さんだから、お風呂でしか歌わないの。それで、みんなにそのことを知ってもらおうと思って、みんなの前で歌ってもらったの」
「僕も小川さんの歌を聴くのは初めてですが、これはダイヤモンドの原石のようなものですから、磨けばもっと輝きが出てくるかもしれません。恐らく、今度の小澤病院のエントランスホールでのコンサートで大きな反響があるでしょう。もっとレパートリーを増やせば...」
「大川さんから褒めていただくのはうれしいのですが、たまたまこの曲が音域が余り広くない歌いやすい曲だから、僕でも歌えるのであって、他の曲でもこういう具合に行くかどうか」
「いえいえ、次のヴィオロンのライヴでは、メインにしましょう。レパートリーを増やしておいてください。クラリネット演奏と2本立てで行きましょう。それでは、そろそろお昼にしましょうか。今日もご馳走を持って来ましたので」
「オオ、スケロクデスネ。アンタガツクラハッタン」
「そうです。ところで、突然ですが小川さん、歌劇「大いなる遺産」の話はどうなっていますか」
小川は、大川からこの話が出るということを予想していた。捗っていないので、アユミをまた怒らせてしまわないか心配になった。そこで突然、意外なことが起こった。ピクウィック氏が話し始めたのだった。