プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生338」

アユミはワンカップを3本飲んでいたのでまだ酒気を帯びていたが、大川が促すと話し出した。
「ピクウィックさんの意見は正しいと思うの。だから、あなた、歌劇「大いなる遺産」はあきらめなさい」
「そう言うけど、理由は何なんだい」
「そんな難しいことをほろよいの私に要求するの」
「そんなこと言ったって、理由がわからないのに諦めるなんてできないよ」
「そうなの。じゃああ、言ってあげる。ピップとエステラでは、「ラ・ボエーム」のロドルフォとミミのように大粒の涙は聴衆から引き出せないとか」
「なるほどそうか。確かにピップとエステラでは無理かもしれない。相思相愛とは言えないからね」
「人情もので無理なら、グランドオペラはどうかなーと検討したけれど、『大いなる遺産』の中に大勢の人が踊ったり、七段飾りのように合唱する人が並んで合唱するシーンを挿入できるかなーって話が出たの」
「うんうん、確かにハヴィシャムさんの屋敷で、召使いが踊るというわけにもいかないし、テムズ川でマグウィッチが捕まるシーンで歌や踊りが入るというのもどうかと思うなぁ」
「それで今度は大がかりな舞台装置って話が出たんだけれど」
「オープンなところと言えば、ピップがエステラに告白するところかな。ハヴィシャムさんの屋敷で2回告白するのだが、2回目では、住人がいなくなり、廃屋となっている。幼い日のピップが脱獄囚マグウィッチと出会うところもオープンだった。でもこんなシーンでは歌や踊りを入れるのは難しいだろう。『大いなる遺産』のシーンというのは、部屋の中というのが多い。興味深いシーンは特にそうだ。ハヴィシャムさんの家に初めてピップが行くところやマグウィッチが一目ピップを見たいと下宿に尋ねてくるシーンは印象に残るが、大がかりな舞台は必要ないだろう」
「それに私の好きなジョーの出番がオペラではカットされるんじゃあないの」
「確かにジョーはピップの成長を見守り、ピップが困っている時に手を差し伸べる重要な登場人物だから出さないわけには行かないが、余りに地味な人物だから、どんな歌を歌わせるか、どんな役どころにするか悩むところだ」
「ピップも幼少期から、50才過ぎるまでいろんなシーンで他の登場人物と関わっている。子供のピップを演じた人にラストシーンでエステラと深みのある会話を交わす役をさせるわけには行かないでしょう。これだけの深みがある小説を2、3時間のオペラ台本にするというのは、どう考えても無理があると思うわ」
「でも、部分的にオペラ化するというのはどうかな。ピップとエステラの恋愛とか、ピップとジョーの親子の情のようなものとか」
「私は文豪が偉大な作品を残したのだから、まずそれに敬意を表しないといけないと思うの。だから作品を切り刻んで作者の意図と違うようなものになっては駄目だと思う。登場人物の名前を使って、別の話にするような虫が好かない人はこうしてやるわ」
「ぐぇっ」
「小川さん、私からの説明はこれで終わるけど、何か補足することはあるかしら」
「いいえ、ないです。仰る通りだと思います」