プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生339」
秋子は大川がアユミの説明で納得したことで一息ついたが、歌劇「大いなる遺産」の台本を小川が作らないということになると、ピクウィック氏の出番がなくなるのではないかと思った。
「ピクウィックさん、少し訊きたいことがあるんですけど、いいですか」
「あら、改まってなんですか。それにしても秋子さんは、いつもお美しいですね」
「確か、ピクウィックさんは、歌劇「大いなる遺産」が少しでも早く仕上がるようにとディケンズ先生が遣わされたと思っているのですが、歌劇「大いなる遺産」の制作が取りやめになり、ピクウィックさんの指導の必要がなくなりました。ピクウィックさんはディケンズ先生のところへ戻られるのですか」
「それもできないことではありませんが、私としてはしばらく人間界にいて、小川さんを励まし、時にはチャールズ・ディケンズの長編小説についてコメントしたいと思っています」
「そうなると、ディケンズ先生の出る幕がなくなってしまうのではないですか」
「いえいえ、私は小川さんが起きている間、先生は小川さんが寝ている間と決めていますから、先生も私も同じように小川さんと接することができるんです。私はお呼びがかからない限りは皆さんとお話をすることはありませんし、つまらないと思えば、空気を抜いてポケットに戻せばよいわけです」
「でも、ピクウィックさんとお話して解決すれば、ディケンズ先生と話す機会が減るでしょう。実は、さっきピクウィックさんに連れられて、ディケンズ先生に会って来ました」
「えっ、ほんとなの、秋子さん」
「そう、ピクウィックさんに連れられて、ディケンズ先生が乗っている気球に乗り、山頂まで来たの。そこでディケンズ先生は最近、小川さんに会えないと涙をこぼしておられたの」
「そうだなあ、最近はディケンズ先生の翻訳を読んでいないからなあ。それで歌劇「大いなる遺産」の制作を始めたら、先生にまた会えるかと思ったんだけど、うまくいかなかった。困りごとができて、先生に相談に乗ってほしいということもなくなったし。そおかあ、ディケンズ先生は僕に会いたいと思っておられるんだ」
「ということをピクウィックさんにも理解していただきたかったんですが、いかがでしょうか」
「秋子さんが言われることはよくわかります。先生と小川さんの友達付き合いに影が差すようなことを私がしてはならないと思います。思い返せば、小川さんと私は長い付き合いですが、とりあえずは以前のように先生がいる時だけ、小川さんの前に現れることにしましょう。それでいいですね、秋子さん」
「ええ、結構です。みなさん、これで私がピクウィックさんに訊きたいことはなくなりました。みなさんは、何かピクウィックさんに尋ねたいことはありませんか」
「特にないなあ」
「じゃあ、皆さん、あまりお役に立てなかったので心残りですが、またお会いする日を楽しみにしています」
ピクウィック氏が別れの挨拶を終えると小川は背中の栓を抜いて空気を抜き、自分のポケットに戻した。