プチ小説「いちびりのおっさんのぶち話 読書は副産物も齎す編」

わしがちいこい頃は文庫本と言えば、茶色っぽい裸の本に赤、白、黄色の帯が巻いてあるという感じで、すごーく、すごーく、とっても、とっても地味なもんやった。わしが高校に入ったころから、出版社は表紙の装丁にお金をかけるようになって、本屋の平積みのところがお花畑のようになって来たもんやった。それでも外国文学の名作の装丁は変わらず、当時はディケンズの場合、中野好夫訳『二都物語』『デイヴィッド・コパフィールド』、山西英一訳『大いなる遺産』、村岡花子訳『クリスマス・カロル』はみーんな茶色の同じような装丁やった。活字もちいこくて、虫眼鏡で見んと読めんような大きさの活字の本もあって、本好きの学生に近視が多いのもしゃあないなあと思うたもんやった。わしは他には、ホームズやモンテ・クリスト伯なんかを熱中して読んだもんやったが、中年になってからは、大人の遊びを覚えてしもうて、それどころやないようになった。船場は、浪人時代から、ディケンズや西洋文学に親しむようになって、ディケンズの長編小説を読み終えたら、意識の流れと言われる、ウルフやジョイスに興味を持ちよった。『ユリシーズ』はもひとつ理解できんかったようやが、昔、大学時代のドイツ語の先生から勧められた、ブロッホの『ウェルギリウスの死』を読んで、感化されたみたいで、いまわしが書いとる文章なんかをブロッホのまねをして書くようになりよった。ほいで風光書房で買うた、『ホフマンスタールとその時代』を読みよったが、むつかしい言葉ばっかり出てくるんでよう理解しよらんかった。風光書房では、ブロッホの『夢遊の人々』『誘惑者』も購入しよったが、船場はまだ読んどらん。船場は、意識の流れの有名な作品『失われた時を求めて』を読み始めよったが、第1編「スワン家のほうへ」を読んだところで中断しとる。急に思い立って、クラシック音楽の作曲家の評伝を読み始めたからやが、アインシュタイン(有名な物理学者とは別人)の『シューベルト 音楽的肖像』、『モーツァルト その人間と作品』から始まって、ヴェルディ、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキー、ドビュッシー、リヒャルト・シュトラウス、ラフマニノフ、ボロディンの評伝を読みよった。文学に親しんで来た船場がなんで急に評伝なんかを読み始めたんか気になるし、『失われた時を求めて』の続きや『夢遊の人々』をいつ読むんか気になるし、訊いてみたろ。おい、船場、おるか。はいはい、にいさん、なんで評伝ばかり読んで、文学を読まんかったんかということですね。そうや、あんた『こんにちは、ディケンズ先生』の続編を書き続けたいと思うてんのやったら、評伝なんか読まんと物語の展開や語り口なんかが身に着く文学を読まんとあかんのんちゃうのん。そら、にいさん、いろいろ人ちゅーのは考えを持っとって、私も自分の考えを持っとります。評伝ちゅーのは、一人の芸術家が生まれて、死ぬまでを描いたもので、『こんにちは、ディケンズ先生』で主人公小川弘士の半生〜一生を描くのですから、芸術家がどのような人生だったかを1冊の本で理解できる評伝というのはとても参考になるんです。そうか、でもなー、そう言うても、主人公が大作曲家になるわけでもないやろし、あまり参考にならん気もするけどなぁ。まあ、ええわ、ほんでプルーストとブロッホの作品はいつ読むんや。ブロッホはいつになるかわかりませんが、『失われた時を求めて』の方は今読んでいる、ショパンの評伝を読み終えたら、第2編「花咲く乙女たちのかげに」を読み始めようと思います。まあ評伝は自分の人生の参考になるかもしれへんから、わしも読んでみよかなー。