プチ小説「いちびりのおっさんのぷち話 一人旅も楽し編」
わしがちいこい頃は、両親が共稼ぎで忙しくて、夏休みになると父親の親戚の家に1ヶ月ほど預けられたもんやった。もちろん弟と小学生ふたりだけで岡山の山奥まで行くわけにいかんから、行き帰りは両親との旅行を楽しんだもんやった。大阪駅で駅弁とお茶を買うてのんびりちゅーわけにはいかんかったから、家からおにぎりと麦茶を自由席に持ち込んだもんやった。それでも2つ楽しみにしていることがあって、ひとつは緑色やオレンジ色や赤色の球状(ボール型)の氷菓子を食べることやったが、当時の急行電車(みまさか)は冷房が入ってへんから、7月21日頃となるとそら暑かった。ほんで、お母ちゃん暑いちゅーたら、母親は、はいはいちゅーてその氷菓子を出してくれたもんやった。もうひとつは、姫路駅で駅弁のように売りに来よるえきそば(和風だしの中華そば まねき)なんやが親の懐具合や電車が止まる場所で左右されるから食えへんことが多かった。わしが中学校に入ると夏休みに父親の親戚の家には行かんようになったが、中2の頃から夏休みに家族で旅行に行くようになった。最初は日生(兵庫県)やった。今は牡蠣の産地のようやが、当時は海水浴をするくらいやった。中3の時は富士五湖(富士山の五合目で霧の中をうろうろしたのを覚えとる。夜は河口湖花火大会に行ったのは良かったんやが、迷子になってしもうた。わしは生まれつき大きな音が苦手で、打ち上げ花火の大音響に訳が分からんようになったんやった)、高1の時は九州(長崎でちゃんぽん、呼子でイカ刺しを食べたのを覚えとる。宿泊所の矢太楼からの夜景がきれいやった)、高2の時は日光(東照宮でおみくじを引いたら凶で、長い浪人時代の間、おみくじを引いたことを悔やんだんやった。いろは坂や華厳の滝にも行って塩原温泉に泊まったんやった)と、両親は我が子にええ思い出が残るようにと奮発したんやったが、わしは高校時代、成績が最低やったから、旅行中も楽しい気分になれへんかった。あほなことをしたり、カメラで写真を撮ったったりして、両親を喜ばせたったらよかったのになぁと今になって思うんや。弟や友人と一緒に旅行したり、東京におる友人を訪ねていくちゅーのは大学生の頃までようしたんやが、一人旅をしたんは社会人になってからやった。お金はないけど、時間はあるちゅー人がよう使う深夜バスで、東京、仙台、山形、新潟、博多なんかに行ったもんやった。今考えたら、わしの強行軍の旅行に友人を付き合わさせんでよかったなあと思う。特に山形と博多はいわゆる弾丸ツワーみたいに目的を果たしたらすぐに夜行バスで帰るというやつで、山形では、日本一の芋煮会に参加した後、山形市内で蕎麦を食うて帰ったんやった。山形ではその季節になると芋煮会が河川敷なんかで催され気軽に参加できるそうやから、一ぺんでもええからその時期に河川敷を散策して腹一杯芋煮を食べたいもんや。ほんでから博多は大宰府天満宮にお参りして、祇園で長浜とんこつラーメンを食うて、小倉に出て旦過市場をうろうろしていわしとさばのぬか炊きを買うて帰ったもんやった。ぬか炊きは小倉のソウルフードで、知り合いからいっぺん食べてみてみと言われて、食うたんやけどこれがほんまに旨かった。船場は『こんにちは、ディケンズ先生』を公立図書館に置いてもらおうと思うて、北海道、東北、四国、九州に、時には飛行機まで利用して行きよったみたいやが、最近遠出をしとるんか訊いてみたろ。船場―、おるかー。はいはい、にいさん、遠出の話ですね。だいぶ前のことですが、仙台まで新幹線で行って、山形県の山寺(立石寺)や岩手県の中尊寺や毛越寺まで足を延ばしたことがありました。それから長野まで特急しなので出て、バスで戸隠まで行き、戸隠神社の奥社まで行ったのもよく覚えています。戸隠ちゅーたら、お前、そば食うたんやろ。ええ、食べました。小樽ではお寿司を、函館では雲丹イクラ毛ガニの三食丼を、仙台では牛タン、テールスープを食べたりしました。岡谷ではうなぎ、小諸では蕎麦、富士宮では焼きそばを食べました。お前は食うてばかりやなー。もっと旅情に浸るとか、名所旧跡を回るとかせんかったんかいな。そやけどほんまお互い、ゆっくり旅行したいもんやな。弾丸ツワーもええけど、海外旅行もええんとちゃう。そうですね、海外だとまずは好きな作家のディケンズが活躍したロンドンに行ってみたいですね。それから大好きなクラシック音楽をウィーンで存分に聴いてみたいという昔からの熱望があります。。それから満天の星を見るためにオーストラリアの砂漠地帯なんかに行くのもやってみたいですね。そうか、まあそのためにはこれからも仕事頑張らなあかんでぇぇ。