プチ小説「名曲喫茶ムジークヒュッテ」
夏山は、朝の7時半ごろK駅で下車した。地方公務員試験を受けるため、最寄りの駅で降りたのだった。辺りは10メートル先も見えない霧に包まれていた。
「それにしても、こんなに濃い霧は初めてだなぁ。ここではよくあることなのかな。無事に会場に行けるのかしら」
彼が家を出たのは5時半ごろだったが、彼が住む街では晴天で雲一つなかった。
「電車だと一旦京都に出て迂回する感じなんだが、直線距離で自宅から30キロもないから自転車でも来られるんじゃないかな。まあ、どうして来るかより今日の試験に合格してこの街との関わりが深くなるかというのが先決問題なんだけど...おや」
彼が会場に向かって歩いていると一風変わった喫茶店が目に入って来た。
「街の中だというのに、霧に取り囲まれた小屋か。コンクリートのビルが並ぶ中に真っ白な木造の建物があるというのも目を引くし、面白そうだな。まだ時間があるから、ちょっと入ってみるか」
夏山が店の中に入って左手を見るとカウンターがあり、その奥に厨房があった。カウンターの向かいには3段の棚にアナログレコードがぎっしりと並べられてあり、セット物の箱には、Beethoven
Mozart Bach Brahms Schubert Chopin などの作曲家の名前が見られた。店の一番奥には、両端にタンノイの大型スピーカーが置かれてあり、中央には、なぜかパネルに貼られた日本アルプスの山の写真が2枚掛けられてあった。その手前に一人掛けと二人掛け用のテーブルが3列に並べられてあった。椅子はすべてスピーカーに対峙するように置かれてあった。客は誰もいなかった。物音がしたので、夏山は後ろを振り向いた。
「注文は?」
店主らしき、台形の白髪交じりの髭を生やした男が言った。
「モーニングセットがあったら、それがいいんだけど」
「うちは飲み物しか置いてないよ」
「そうですか。じゃあ、ミルクティーをもらおうかな」
注文して15分してもミルクティーが出て来ないので、大人しい夏山もいらいらしだした。試験開始の時間まであと20分しかなかった。
「試験に遅刻したくないなぁ。会場まではここから10分ほどだけど...。さっきのおじさんはいるのかな」
夏山が入口の方に歩いて行きカウンターの向こうを見てみると、髭の店主はしゃがみ込んで「ありがとう、○○○です」を聴いていた。
「すみません。さっき注文したミルクティーはまだなんでしょうか」
「おお、そうだったな。これから湯を沸かすよ」
「それは困ります」
「どうして」
「だって、試験に間に合わなくなります」
「試験?何の試験だ」
「K市の中級職の試験です」
「ほう、そうなのか。それじゃあ、飲むのは帰りがけにして、飲み物代だけを払ってから会場に向かってくれ。うちの紅茶はうまいから損はしないよ」
「なんだか、詐欺に遭ったみたいだけど、おじさんが言うことを信じて代金は先に払っておくよ。いくらなの」
「500円だよ」
夏山が試験を終えてその店の前を通りかかかると店は、閉まっていた。入口のところに貼り紙がしてあったが、そこには目を疑うようなことが書かれてあった。体調が悪いので、2、3日休みます。ミルクティーを注文した、あなた、運が悪かったと思って諦めてください。なお、わたしを決して捜さないでください、と書かれてあった。ノックをしたが、誰も出て来なかった。夏山は途方にくれたが、日が傾いて暗くなって来たので帰ることにした。
「大学生と思って、なめられたのかな。もう一度必ず来る。次は仕返しをしてやるからな。覚えていろよ」
夏山はそう言ってもう一度ドアをノックして小屋の入口をしばらく凝視していたが、中から何の反応もなかったので帰途へとついた。