プチ小説「名曲喫茶ムジークヒュッテ3」
夏山が髭の主を見て大股で歩き出したのを見て、井上は、こんなに怒っている友は今まで見たことがないと思った。市役所に4月から勤務するというのに夏山が市内で暴力沙汰を起こしたのでは、仕事に支障が出ると案じた井上は駆け足で夏山を追い抜き、髭の主に話し掛けた。
「いやあ、いい天気ですね。ここは、名曲喫茶って看板が出ているけれど、名曲喫茶なんなんですか」
「あんた、何を言ってるの。うちは名曲喫茶という店なんだ。わしはそんな風に細かいことを言うやつが大嫌いなんだ」
「そうですか、それでぼくにもあんなことをしたんですね」
「おお、そうだったな。忘れていたよ。ほら、500万円」
そう言って、髭の主が夏山の手に100円玉を5枚握らせた。
「面白いことを言って誤魔化そうとしても駄目だ。ぼくはほんとに、ほんとに怒って...はははははは、何が500万円だ。面白すぎる」
「まあまあ、あんたの気が休まったのなら、店で寛いでくれ。わしは親父の留守番だけど、あんたらが聴きたい曲があれば、掛けてあげるよ」
「留守番って、ここはおじさんの店じゃないの」
「親父がこの店の主だけど、心臓の慢性疾患を患っているので定期的に入院する。入院中は、わしが臨時で店主になる。あまり詳しいことを訊かれると困るんだ。質問はこのくらいにしてくれないか」
「リクエストしたら掛けてくれるそうだから、夏山、どうだい、久しぶりにリパッティのショパンのワルツなんてのは」
「いいねえ。おじさん、どうですか、レコードありますか」
「まあ、留守番でもマスターなんだから、おじさんじゃなくてマスターと呼んでくれるとうれしいよ。リパッティのショパンのワルツ集はあるから、掛けてあげるよ」
ワルツ集が終わると、髭の主が夏山と井上のところにやって来て言った。
「やっぱり、リパッティはいいねえ。他にお客さんもいないし、今度はこっちのお客さんのリクエストも掛けてあげようか」
「ええ、是非、お願いします。でもその前に、なぜ貼り紙に...」
「まあ、そのことは追々話すよ。まあ、あの時はああするしかなかったとだけ言っておこう」
「わかりました。じゃあ、追々ということでお願いします。ぼくは卒業したら故郷の愛知県に帰ってしまうから説明を聞く機会もないけど、追々、夏山に説明してやってください。夏山は4月からここの市役所で働きますから」
「ほう、じゃあ、夏山さん、気軽にここに寄ってくれ。そうだなー、ここでひとつお願いをしていいかな」
「お願いですか。何でしょう」
「実は、ここに来るお客さんで、マスターのお気に入りの曲を掛けてくれと言う人がいるんだ。わしは父親ほどのクラシック音楽ファンではない。でもアルファベット順に整理してあるから、調べることはすぐにできる。良かったら、クラシック音楽ファンを唸らせるレコードがあったら、教えてほしいんだけど」
「いいですよ。そうですね、ペーター・マーク指揮ロンドン交響楽団のメンデルスゾーンのフィンガルの洞窟と交響曲第3番「スコットランド」はどうでしょうか。ジーンと心に沁みる名盤で、ぼくの場合、このレコードを聴くといろいろなイマジネーションが湧いてくるから、創作活動をする時はぴったりだと思っています」
「ほう、夏山さんは何か創作するのかい」
「いいえ、何を創作するかはこれから考えます」
「おお、ここにあった。じゃあ、これを聴いていただこうか」